平安貴族の優雅な嗜みである和歌は、今回のドラマでも注目の文化的コミュニケーションツール。そして、私たち現代人にとってもっとも身近な和歌といえば、お正月などに遊ぶ歌がるた「小倉百人一首」でしょう。
「小倉百人一首」は鎌倉時代の歌人・藤原定家が編集した名歌集を原形とし、100人の歌人の和歌を一人1首、計100首集めたアンソロジーです。「光る君へ」の登場人物や親族の和歌のほか、彼らが関係する和歌もたくさん採られています。
今回は、その中からいくつかピックアップしてご紹介しましょう。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影
めぐりあって顔を見たあなたが、確かにその人とも分からない間に、あなたは消えてしまった。まるで雲に隠れる夜の月の光のように。
(紫式部)
紫式部の代表歌ですね。恋人との出会いと別れを詠んだ和歌かと思いきや、じつは幼馴染の女性と久しぶりに会ったときのものです。年月を経て顔や姿が変わり、「誰?」状態で互いに盛り上がっている間に夜が更け、友は慌ただしく帰宅……。「残念だわ、もっと一緒にいたかったのに」とつぶやく友情の和歌です。
『紫式部集』によれば、この友は妹を亡くしていました。そして紫式部は、母と姉を亡くしていました。寂しさを抱えた二人は、互いに「お姉さん」「妹」と呼び合って親友となりました。が、やがて友は九州へ、紫式部は越前へ。遠く離れても手紙を交わしていましたが、二度と会えぬまま友は亡くなってしまいます。ドラマでのまひろの親友・さわさんは、実在のこの友をモデルにしたものでしょう。
人は皆、出会いと別れを繰り返します。つかの間の交流を思い出として――。仏教の言う「会者定離(会った者は必ず別れる)」のさだめは、紫式部の人生そのものでもありました。
紫式部はこの和歌を自撰歌集『紫式部集』の冒頭に掲げています。過ぎ去っていったほかの人々への想いも込めた、彼女自身にとって大切な和歌だったのでしょう。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
この庭の滝の水音は聞こえなくなって久しいが、滝の名声だけは絶えることなく、今もやはり聞こえていることよ。
(大納言公任〈藤原公任〉)
公任のこの和歌は、長保元年(999)9月12日、藤原道長たちと嵯峨の大覚寺に出かけたときに詠んだもの。同行した藤原行成の日記『権記』にも記されています。
大覚寺は平安時代初期には嵯峨天皇の離宮で、広大な庭園の一画に滝がありました。それから200年近い時が過ぎ、公任の見た滝はすでに涸れています。が、それを「世に流れる名声は絶えない」と洒落るとは、さすがに知的な公任です。
ちなみに、紫式部が中宮彰子のもとに仕え、彰子が皇子(敦成親王)を産んだ寛弘5年(1008)、公任はすでに『源氏物語』の読者の一人でした。同年11月1日、皇子の誕生50日を祝う宴席で、彼が「このわたりに若紫や候ふ(この辺りに若紫さんはお控えかな)」と紫式部を冗談めかして呼んでいるからです(『紫式部日記』)。
公任が、『源氏物語』の第5帖「若紫」を読んでいたことは間違いありません。この記述は、このとき公任のような男性貴族にも『源氏物語』が広まっていたことを示す貴重な証言なのです。
じつは、この寛弘5年11月1日は、『源氏物語』の存在が確認できる記録上もっとも古い日付でもあります。それから1000年以上を経た平成24年(2012)に11月1日を「古典の日」とすることが法制化されましたが、その決定にはこういった背景があるのです。
やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
さっさと寝てしまえばよかった。あなたを待っていたから、夜が更けて傾くまでずっと月を見てしまったわ。
(赤染衛門)
道長の北の方(嫡妻)である源倫子の女房・赤染衛門の作です。赤染衛門は器用で、さまざまな人のために代作をしています。この和歌も姉(または妹)のために詠んだもの。じつはこの女性、道長の長兄・道隆と交際中でした。ところが、逢瀬の約束をしたものの彼は来ずじまい。一夜を棒に振った彼女になり代わって、赤染衛門が詠み送ったのです。
伝えたいのは、デートをすっぽかされた恨み。とはいえ、キレ過ぎて彼に引かれるのも嫌。そんな微妙な恋心を、赤染衛門は見事にくみ取っています。彼をねちねち責めることなく、むしろ月を見て彼を待ち続けた姉(または妹)の健気さ、可愛さ、そして優雅さがアピールされていて、道隆は惚れ直したのではないでしょうか。
『紫式部日記』によれば、赤染衛門は彰子や道長から「匡衡衛門」と呼ばれていたとか。詩人・学者として名高かった夫・大江匡衡との夫婦仲の良さから付けられたあだ名のようで、この呼び名からも家族思いの彼女が偲ばれます。
心にも あらで憂き世に 長らへば 恋しかるべき 夜半の月かな
今はもう生きていたくもない。だが、もしその思いとは裏腹にこのつらい世に生き続けていたら、いつかは恋しいと思うこともあるのだろうな。美しい夜更けの月だ。
(三条院)
三条院(三条天皇)は、右大臣藤原兼家による陰謀・寛和の変で退位・出家した花山院の異母弟です。花山院に代わって一条天皇が即位すると、天皇より4歳年上ながら東宮(居貞親王)となり、以後25年間、雌伏の時代を過ごします。その後即位できたものの、在位期間はわずか5年でした。
かつて兼家は、孫である一条天皇を即位させるために謀反を起こし、花山天皇の時代を2年で終わらせました。三条天皇を取り巻いていた状況も、このときとよく似ています。これからドラマで描かれると思いますが、最高権力者となった左大臣道長によって、異母兄と同じような事態が繰り返されたのです。
道長は、娘である中宮彰子が産んだ東宮・敦成親王(のちの後一条天皇)の即位を心待ちにしていました。そのため三条天皇に露骨な圧力をかけ、何度も譲位を迫ります。そのストレスの影響からか天皇は重度の眼病に罹り、なぜか内裏は2度も全焼……。そんなとき、天皇が避難先の仮内裏で詠んだのがこの和歌です。
その夜の月は、荒涼と冴えわたっていたのでしょう。
道長といえば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」の和歌がよく知られています。が、彼が栄花を手にしたその陰には、哀感とともに月を詠む三条院がいたのです。
このように、ドラマの登場人物が詠んだ和歌を思い出しながら「光る君へ」を見ていくと、その人の違った一面が浮き彫りになって、さらにドラマを楽しめるかもしれませんね。
②に続く……
※「光る君へ」番外編 〈百人一首の中の「光る君へ」②〉は、8月10日(土)に配信予定。
引用本文:「小倉百人一首」(『百人一首(全)』角川ソフィア文庫)
当コラムでは下記の4人についても、「小倉百人一首」に採用された歌を紹介しています。
併せてご覧ください。
・右大将道綱母(藤原道綱の母/ドラマでは、藤原寧子)
・清原元輔(清少納言の父)
・儀同三司母(高階貴子)
・清少納言(ドラマでは、ききょう)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。