ちょうとく3年(997)6月、いちじょう天皇は定子をだいの隣の「しきぞうちゅうぐうしきの庁舎)」に移しました。ドラマでは、定子が職の御曹司に入ると一条天皇はそこに入りびたっていましたが、これは創作です。天皇は貴族たちに配慮してあからさまな行動をとらず、おうのかなう日を待ち続けました。それほど天皇と定子に対する世間の目は厳しかったのです。

とはいえ『まくらのそう』によれば、定子の女房たちはつらそうな素振りなど見せませんでした。むしろ楽しげに、風流に、そして元気いっぱいに振る舞ったといいます。

職の御曹司におはしますころ、木立などのはるかにものふり、屋のさまも、高うけ遠けれど、すずろにをかしうおぼゆ。

中宮様が中宮職の庁舎にお入りになった頃のこと。木立などは老木だし建物も屋根が高くて殺風景だけれど、妙におもしろい気がする。

(『枕草子』「職の御曹司におはしますころ」)

職の御曹司はもともと事務所で、豪華な御殿ではありません。建物の母屋には不吉なものがいるとかで住めず、生活するには不便でした。それでも清少納言は気にしません。庭に降りたり、「内裏のけんしゅんもんのぞきに行こう」と女房たちと連れ立ったり、大はしゃぎでした。

清少納言たちがいると聞くと、殿てんじょうびと(天皇が暮らすせいりょう殿でんに出入りできる上級官人)たちも大勢で職の御曹司を訪れ、漢詩を口ずさんだり和歌をんだり。殺風景だった職の御曹司が文化サロンのにぎわいを見せたと、清少納言は記しています。

夜も昼も殿上人の絶ゆる折なし。かんだちまで参りたまふに、おぼろけに急ぐ事なきは、必ず参り給ふ。

夜も昼も、殿上人はひっきりなしにやってくる。ぎょうの方までが、内裏に通勤の折、とくに急ぎの用事のないときは、必ず立ち寄っていらっしゃる。

(同上)

当時、官人の内裏勤務には、朝勤・日勤・夜勤の3種類がありました。職の御曹司は内裏への通勤路に面しており、官人たちが勤務開始までの時間を過ごしたり、仕事終わりの解放感から立ち寄ったりするには最適な場所にあります。『ぐら百人一首』にる清少納言の代表歌も、このころに詠まれたものです。

夜をこめて 鳥のそらは はかるとも 世にあふさかの 関は許さじ

夜更けに鳥の声をまねて鳴いてみせたって、そんなウソにだまされるものですか。私は関所を開けませんよ

(『小倉百人一首』)

これは清少納言がふじわらの行成ゆきなりに詠んだ和歌です。「鳥の空音」は司馬しばせんの『史記しき』にある、人がにわとりの鳴きまねをして朝が来たと関守を騙し、関所を開けさせたという故事にっています。

ある日、行成は職の御曹司で清少納言と夜遅くまで話し込んでいました。しかしその日は、うしの刻(午前1時)から清涼殿での勤務があったため、深夜にあわただしく出ていかざるをえませんでした。

翌朝、行成はふざけて後朝きぬぎぬふみおうのあとに交わす恋文)めかした手紙を清少納言に寄越して、『昨夜は鶏の声に急かされた』と言い訳をします。でも、出て行ったのが鶏の鳴く時間には早すぎたので、清少納言は『史記』の故事を引き合いに、自分は騙されませんよと返したのです。

実際、清少納言との雑談は、行成にとって夜勤までの暇つぶしでした。とはいえ、定子サロンの人気は事実だったのでしょう。『枕草子』には職の御曹司での風流な思い出がいくつも記されています。

なお一条天皇には、長徳2年(996)の政変直後に、右大臣藤原顕光あきみつの娘・元子と大納言(のち内大臣)藤原公季きんすえの娘・義子が入内し、長徳4年(998)には道長の亡くなった兄で関白だった藤原道兼みちかねの娘・尊子が入内しました。

彼女たちの誰かが皇子みこを産むことは、それぞれの実家にとってはもちろん、皇統の継承をのぞむひがしさんじょういん詮子にとっても、定子を政治の矢面に立たせたくない一条天皇自身にとっても望ましいことでした。

そんななか、長徳3年の冬、元子に懐妊のきざしが見られます。父の顕光は狂喜乱舞し、元子は懐妊3か月で里帰りしました。

えい物語』(巻五)によれば、退出する元子がライバル・義子の御殿を通過するとき、義子の女房たちがその行列を見ようと集まって御簾みすにもたれ、御簾が大きく膨らみました。そのとき、元子の召使の少女が「義子様ではなくすだれが懐妊中ね」と皮肉を言い、義子の女房たちを悔しがらせたということです。

翌年の夏、元子は臨月を迎えたものの、一向に産気づく気配がありません。そこで、広隆寺でとうを行わせると陣痛が起こり、寺での緊急出産という騒動になりました。しかし……。結局、赤子は出て来ず、膨らんでいた腹部はみるみる平たくなってしまったというのです。

もしかすると、想像妊娠だったのかもしれません。実家や天皇の期待を裏切り、こくになる夢も破れた元子はその後、実家に引きこもりました。

やはり定子に頼るしかない――。皇子がほしい一条天皇は心を決めます。天皇が職の御曹司の定子を呼びだし、内裏で逢瀬をもったのはちょうほう元年(999)正月でした。そして11月、一条天皇の第一皇子・敦康あつやす親王が誕生することになるのです。

 

引用本文:『枕草子』『栄花物語』(小学館 新編日本古典文学全集)

 

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。