寛弘かんこう8年(1011)、いちじょう天皇は崩御ほうぎょしました。その死をめぐっては、いまだ解かれていない謎が4つ存在します。                                            

1つ目は“死因”です。天皇は5月22日に発病、25日には回復しますが、翌日に突然、死を覚悟し譲位を決意します。そして実際に、1か月後には亡くなってしまうのです。

まだ数え年32歳と若い天皇が、一度回復したにもかかわらず翌日に死を覚悟するというのも少々不自然に思えます。天皇の死因が病であることは間違いありませんが、たとえば生きる気力をなくすほどに天皇を追い詰め、病状をにわかに悪化させたものがあったのだとしたら……。

それは、漢学者・大江おおえの匡衡まさひら赤染あかぞめもんの夫)による易占えきせん筮竹ぜいちくさんを用いる占い)でした。依頼したのは道長みちながで、出たは「ほうめい」。かつてだい天皇や村上むらかみ天皇が崩御したときと同じ結果です。

この結果を聞いた左大臣ふじわらの道長みちながは、天皇がす部屋の隣室に控えていた僧にうらぶみを見せて泣きました。天皇はちょうの隙間から2人のさまを見て、自分は病で死することが運命と悟り、それで一転病状が悪化したというのです。

現代の私たちにすれば、占いは非科学的なものかもしれません。が、当時の政治は占いに多くを頼り、とくに易占は信頼されていました。これまで占いを信じて政治をってきた天皇にとって、匡衡の占文は疑いようのない死の宣告だったのでしょう。

それにしても、占いがここまで天皇の生きる力を失わせるとは……。また、道長の行動も不可解です。さも天皇に聞こえるように、占文を見て泣いたようではありませんか。

2つ目は中宮彰子が道長をうらんだことです。譲位の意思は一旦伏せられ、日柄を選んで27日に東宮とうぐう居貞いやさだ親王/のちのさんじょう天皇)に伝えられましたが、彰子には告げられませんでした。そのためけ者にされたと感じ、彰子が父・道長を怨んだというのです。

これについては、次期東宮をめぐり道長と彰子の間に対立があったとの見方が有力です。道長が実の孫である第二皇子・敦成あつひら親王の立太りったい(皇子を東宮/皇太子に立てること)を望む一方、彰子は一条天皇の意を受け、定子の遺児である第一皇子・敦康あつやす親王を推していた――。

これは歴史物語『えい物語』だけが記すことですが、あながち作りごととも思えません。彰子は、一条天皇のちょうあいを受けない孤独な期間を敦康親王と過ごしました。養子だったとはいえ、敦康親王への愛情は実子同然だった可能性があります。

また彰子は、実子・敦成親王にも20年も経てば即位の順が回ってくると考えていたでしょう(コラム#38参照)。その20年が待てないのは、この年43歳の道長だけなのです。敦康親王を推す彰子は、道長にとって煙たい存在になっていた可能性があります。彰子はそんな父の横暴を怨み、“もの言うきさき”へと生まれ変わったのです。

3つ目は院となった一条天皇のせいです。彼は崩御前夜に一首の和歌をみました。これが誰に向けて詠んだものなのか、それが謎なのです。藤原行成ゆきなりの日記『ごん』によれば、和歌は次の通りです。

露の身の 風の宿りに 君を置きて ちりを出でぬる ことぞ悲しき

人という露のようにはかない身の、風にさらされる無常の世。そんな俗世に君を置いて、この世を離れてしまうことが悲しいよ。

(『権記』寛弘8年〈1011〉6月21日)

第3句の「君」とは誰か。行成は「の御志は皇后に寄するに在り(歌のお心は皇后様に寄せたものだ)」と記しています。『権記』の書き方では皇后は定子を意味します。定子はすでにちょうほう2年(1000)に崩御していますが、そのとき彼女は次の和歌をのこしました。

煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それと眺めよ

土葬される私の身は、煙となって空に上がることも雲となって漂うこともありません。どうぞ草の葉に下りた露を私と思って眺めてください。

(『栄花物語』巻7)

自分は露になると詠んでった定子。行成は、一条院の和歌の初句「露の身の」を聞いて彼女を思い出したのでしょう。院の辞世は、皇后定子との思い出を置いて旅立つことを悲しむ、定子への愛の歌だと行成は受け取ったのです。

しかし『栄花物語』や、鎌倉時代のちょくせん集『しんきん和歌集』は、院の和歌の「君」は彰子のことと解釈しています。道長の日記『どう関白かんぱく』が、院のそばで和歌を聴く彰子の姿を書き留めているからでしょう。とすると、これは院から彰子への愛の歌ということになります。

はたして「君」は彰子か定子か。はたまた敦康親王を指すとの説もあり、謎は解き明かされていません。

そして、最後の謎が葬送そうそうの方法です。院は生前、土葬を望む意向を道長に伝えていました。ところが道長はそれを失念し、火葬を終えてから思い出したというのです。

道長がいつ土葬の意向を聞いたのかは分からず、彰子が聞いていたかどうかも不明です。また、院が土葬を望んだ理由も諸説ありますがはっきりしません。道長が土葬を失念していたことについて歴史学者の服藤ふくとうなえ氏は、土葬では定子と似た葬られ方なのでわざと忘れたふりをして火葬にしたのかもしれない、と推測しています。

一条天皇の崩御をめぐる4つの謎。すべてにからんでいるのは道長です。占いによって結果的に天皇を退位に追い込み、彰子に相談することなく孫の立太子を決め、院の辞世は彰子に宛てたものとし、土葬の意向にさえ従わなかった道長。

少しでも早く一条朝を過去に追いやり、時代を先に進めたい――そんな道長の“あせり”が見え隠れするように感じられないでしょうか。

 

参考本文:『権記』(臨川書店:増補 史料大成)
     『栄花物語』(小学館 新編日本古典文学全集)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。