ふじわらの道長みちながの娘・妍子は寛弘かんこう7年(1010)、東宮・居貞いやさだ親王(のちのさんじょう天皇)と結婚し、三条天皇の即位後のちょう元年(1012)に立后りっこうしてちゅうぐうになりました。ところが2か月後、別のにょう・藤原娍子も立后して皇后に。一人の天皇が二人のきさき(本妻)を持つ「一帝いっていこう」の再来です。

前回はいちじょう天皇のちょうほう2年(1000)、后の定子が尼になるという緊急事態をうけて、道長の決断で中宮彰子と皇后定子が並び立ちました。今回、三条天皇はそれを「先例」としつつも、何の大義名分もなく妍子と娍子を並び立たせたのです。天皇が表明した率直な思いを、藤原実資さねすけが日記『しょうゆう』に書き留めています。

「久しく東宮に在りて天下を知らず。今、たまたまとうきょくしては意に任すべし。らざるの事、がんなり」

ちんは長く東宮の位にあって天下を知らない。今、思いがけなくも即位したからには、我が意のままにすのが当然であろう。そうしないのは愚かである」

(『小右記』長和元年〈1012〉四月二十八日)

娍子の立后は、天皇自身の強い「我意がい(わがまま)」だったのです。

三条天皇は即位前、東宮時代に4人のきさきを迎えていました(下図)。東宮の結婚と言えば、立場上、政略結婚となるのが当然でしょう。しかし一人娍子だけは、東宮自ら望んで結婚した妻でした。

彼が最初に結婚したのはえい元年(989)、14歳の時でした。相手は摂政・藤原兼家かねいえの娘の綏子。ただ綏子は、兼家が愛人の女房・近江に産ませた娘(道長の異母妹)でした。近江は兼家以前にも別のぎょうの愛人だった過去があり、貴族社会では“多情”と後ろ指を指される存在でした。

平安時代の歴史物語『おおかがみ』によれば、居貞親王と綏子の夫婦仲は当初は悪くなかったようです。が、やがて綏子が里に戻り別居状態に。愛情をねばっこく見せつける綏子の性格に、居貞がげんなりしたせいだといいます。

さらにちょうとく年間(995~999)、綏子は密通事件を起こし妊娠してしまいます。このとき、不実の噂に動揺した居貞親王から相談を受けた道長が、綏子の乳房をひねって母乳が出ることを確認し居貞に伝えたと『大』はいいます。あまりにも無礼な逸話ですが、まさか事実ではないでしょう。とはいえ綏子の裏切りは事実で、彼女は不義の子を産みました。

ただ、居貞親王が深く傷つくことはなかったようです。理由は第2の結婚です。正暦しょうりゃく2年(991)に彼は娍子と結婚し、長男のあつあきらが生まれていました。娍子の父はだいごん藤原済時なりとき。公卿でしたがぼうりゅうで、大臣になれる見込みもない人物でした。

三条天皇の皇后・藤原娍子(朝倉あき)。

しかし、それがむしろ気楽で良かったのかもしれません。居貞に娘・綏子をあてがった権力者・兼家が正暦元年(990)に亡くなった後、まもなくして2番目の妻・娍子を迎え入れており、重石おもしの取れた解放感がそこから推測されるのです。

第3の結婚は、長徳元年(995)。相手は藤原道隆みちたかの二女・原子でした。長女・定子を一条天皇の后とした道隆は、さらに東宮と結びついて次代までの安泰を図ったのです。しかしそれは、彼の最後の光芒こうぼうでした。

すでに持病が悪化していた道隆はまもなく亡くなり、息子の伊周これちかは道長との政争に敗れ、翌年には「長徳の政変」(コラム#19参照)を引き起こして一家は没落しました。居貞親王にしてみれば、“はずれくじ”をつかまされたような結婚でした。

しかも原子は長保4年(1002)、22~23歳という若さで急死します。持病も無いのに鼻や口から血をしたたらせる凄惨せいさんな死に方で、ライバル関係にあった娍子に疑いの目が向けられました。ただ、娍子はすでに居貞のちょうあいも深く4人の子までおり、彼女に原子の命を奪う動機は見当たりません。事実は今も闇の中です。

以後8年間、居貞親王は娍子を唯一の妻として仲睦なかむつまじく暮らしました。娍子はさらに子を産み、長男・敦明を筆頭に6人の子を育てました。ただそのころは、一条天皇と道長による安定政権が維持されており、なかなか即位できない居貞にとってつらい時期でもありました。娍子はそのふくの日々を分かち合った、まさに糟糠そうこうの妻なのです。

道長が次女・妍子を居貞親王に入内じゅだいさせた寛弘7年(1010)年は、長女・彰子が一条天皇の中宮として敦成あつひら敦良あつながの2親王を産んだあとです。すでに「敦成の即位」を心に秘めていた道長にとって、居貞は邪魔な存在でした。

三条天皇の中宮妍子(左/倉沢杏菜)と敦明親王(阿佐辰美)。

しかし、もし妍子が居貞の皇子を産めば、敦成即位のあかつきにはその皇子を東宮にえる手もある——道長のもく論見ろみは露骨で、居貞をいらだたせていたのです。

三条天皇は後見の弱い娍子を心から愛し、その子を跡継ぎにしたいと願っていました。これは一条天皇が実家の没落した定子を心から愛し、その子・敦康あつやす親王を東宮にしたいと望んでいたのと同じです。

一条天皇の願いが道長にことごとくはばまれていく一部始終を、三条天皇は東宮として見ていました。三条天皇自身の発案による「一帝二后」。真相は一条天皇時代に端を発した、天皇家による道長への復讐だった——。そのように捉えることはできないでしょうか。

 

引用本文:『小右記』(岩波書店:大日本古記録)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。