新しい時代に意欲を燃やす三条天皇。一条院の喪中、しかも四十九日の法事の日にわざわざ新造御所への遷御(転居)を決行するなど、前時代を軽視する姿勢はあまりに露骨です。
一方、彰子は傷心の日々を過ごしていました。そして紫式部は彰子を支え続けていました。そんななかで詠まれた和歌がいくつも伝えられています。
一条院の崩御は寛弘8年(1011)、旧暦の6月で晩夏のことでした。やがて季節は移り、御前の庭に撫子が咲く頃となりました。
見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花
見ていると涙がこぼれる。父に先立たれたことも母の哀しみも分からない、この無邪気な我が子は、あの人が撫でて可愛がってくれた子なのだ。
(『栄花物語』巻九)
撫子の花を室内の瓶に挿していたところ、彰子の息子で東宮の敦成親王が散らかしてしまいました。そのいたいけな様子を見て、彰子が思わず口にした和歌です。
このとき敦成親王は、満年齢ではまだ3歳になっていません。物心もつかず、彰子が亡き夫の供養にと飾っていた花にいたずらしてしまったのでしょう。無心な我が子を目にし、花の名の“撫でし子”を思うにつけ、彰子の心に哀しみがこみあげたのでした。
彰子の和歌で、一条天皇と交わしたものは伝えられていません。彼女が自分の心を和歌に託して詠むようになるのは、ほぼこのときからです。かつて紫式部も夫との死別の哀しみを、物語を書くことで癒やしました。言葉で表現することが心の慰めになったのかもしれません。
院の四十九日は旧暦8月11日。三条天皇が遷御する厳めしい儀式をよそに、彰子は別邸に移り、紫式部ら女房も同行しました。敦成親王は新造の東宮御所に入り、この日から母とは離れて暮らします。しきたりとはいえ寂しく、時が過ぎて院の死が遠のくのもつらく、彰子は仏に祈りを捧げる日々を過ごしました。
年が明け、年号の変わった長和元年(1012)正月、新天皇のつかさどる初めての除目(人事異動)が行われることとなりました。
三条天皇の愛妃・娍子の弟である藤原通任が従三位に昇格するなどあからさまな身びいき人事もあり、世はその話題で持ちきりです。それにつけても一条院の時代を振り返ってばかりの彰子に、紫式部は詠みました。
雲の上を 雲のよそにて 思ひやる 月は変はらず 天の下にて
宮中のことが、宮中を離れた今、思いやられます。そして一条院が昇られた雲の上の世界のことも偲ばれます。院という“日”の光は消えてしまわれました。でも“月(中宮様)”は変わることなくこの世界にいらっしゃって、世を照らしておられるのです。
(『栄花物語』巻十)
和歌の“月”は彰子を指しています。院は雲の上に隠れてしまったけれど、中宮は生きている、そして天下を照らしている――紫式部は彰子を励ますとともに、自覚を促しているのです。東宮の母、次代の国母として前を向き、世の民を明るく照らすようにと。
こうした進言のできる部下はなかなかいません。この和歌からは、紫式部と彰子の間の強い信頼関係を読み取ることができます。このように、彰子は決して孤独ではありませんでした。
紫式部と同様、彰子を支える存在は新時代の公卿のなかにもいました。それが藤原実資です。三条天皇からの信頼もあつかった彼ですが、日記『小右記』によれば、折りに触れて彰子を見舞い、感謝されています。
一条院の一周忌が行われたのちの5月28日にも、彼は彰子の御所を訪れました。そして御簾などの室礼が喪中の仕様から通常のものに戻されているのを見て、思わず落涙しました。一条朝は過去のものとなりもう戻ってこないと思うと、寂しさが止められなかったのです。このときに彼を応接した女房は、紫式部と考えられています。
また翌年の長和2年(1013)には、実資は彰子を「賢后」と讃えました。きっかけは、藤原道長が主催しようとしていた宴会でした。
この宴会は「一種物」という酒肴持ち寄りの豪華なパーティーでしたが、当時「一種物」は頻繁に開かれており、そのたびに公卿たちを煩わせ、疲弊させていました。それを知った彰子は父を諫め、開催を阻止。実資はこの英断を称賛したわけです。
若くして配偶者を喪った彰子は、その後の生涯を夫の記憶とともに生きました。やがて、皇室と藤原摂関家双方に影響力を持つ、強力な“政治家”へと変貌を遂げていきます。
彰子が一途に院を思って過ごした喪の日々は、さらなる成長のためにかけがえのないものだったのです。
作品本文:『栄花物語』(小学館:新編日本古典文学全集)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。