まひろ(紫式部)が都からはるばる訪れた九州・大宰府は、大陸の言葉が飛び交う国際都市でした。朝廷が大宰府だけを大陸との交易の窓口としていたこの頃、博多には中国人居住区があって賑わっていました。宋人と日本人の間に生まれた人々もいて、大陸と行き来し日本の官人になった者もいました。
一方、宋人が日本人を伴って大陸に帰ったケースもあります。その一人が、紫式部の父・藤原為時が越前守時代に漢詩を交わした宋の商人・羌世昌(コラム#22参照)。宋の正史『宋史』によれば、彼は宋年号の咸平5年(1002)に帰国した際、藤木吉という日本人を伴っていました。
多分、その日本人の姓は藤原だったので、中国風に変えて名乗ったのでしょう。名前の読み方は宋の発音だったと考えられますが、よくわかっていません。
宋の皇帝は2人を召喚し、日本について尋ねました。木吉は日本女性の髪形や服装、地方の国名や年号を答えています。さらに皇帝は木吉の持ち物に注目しました。
上、藤木吉をして所持の木の弓矢を以て挽射せしむ。矢、遠かること能はず。その故を詰へば、国中戦闘を習はずと。
皇帝は、藤木吉に所持品の木製の弓矢を射させた。矢は遠くまで飛ばず、皇帝は理由を問いつめた。すると木吉は「日本国内では戦闘の習いがありません」と答えた。
(『宋史』列伝250 外国7 日本)
日本の武器に威力がないと見て取り、戦闘にも慣れていないと聞くと、皇帝は安心したのでしょうか、木吉に金品を取らせて帰しました。宋は日本に交易を迫る一方、その軍事力を警戒してもいたのです。
周りを海に囲まれた日本ですが、海を挟んだ大陸では、宋や朝鮮半島の高麗といった国々に加え、諸民族が緊張感をもって対峙していました。
そして寛仁3年(1019)、大陸沿岸を本拠地とする狩猟・牧畜民の女真族が日本の国域である対馬・壱岐に来襲し、博多にまで攻め込んで来ました。
彼らは高麗から“東の蛮族”の意で「東夷」と呼ばれており、「刀伊」はその音を日本語表記したものです。このときも、高麗の沿岸部を荒らし回り、余勢を駆って日本までやってきたのでした。
藤原隆家は大宰権帥(大宰府の長官)としてこの事件に遭遇、敵の攻撃に対応するとともに都の藤原実資に文で知らせました。その文や、大宰府から朝廷への報告書の内容をまとめると、次のようになります。
3月28日、刀伊は対馬・壱岐に50艘余りの船隊で来襲し、略奪・殺人・拉致・放火を行いました。とくに壱岐の被害は甚大で、国守は殺され島民の9割超が殺害・拉致されました。4月7日には、筑前国の恰土郡・志摩郡・早良郡(現在の福岡市西部から糸島市一帯)が襲われました。
賊は船1艘に50~60人が乗り込んでおり、鉾と太刀、弓矢を武器に山野を駆け巡り、牛馬や犬を殺して食べ、穀物を奪いました。8日には博多湾の能古島に来着、9日には博多に上陸して警固所(朝廷が博多に設けた九州防衛施設)に放火を謀りました。
日本側も果敢に応戦し、隆家自ら軍を率いて警固所に至り、合戦に参加しました。当初は大宰府に兵船がないため陸上で撃退するだけでした。しかし、強風で戦が行われなかった10〜11日の2日間に兵船38艘を急ぎ造らせ、追撃させました。
ドラマの中でまひろたちがいた志摩郡船越の津には、大宰府の精兵が送られて12日に合戦、13日には肥前国松浦郡に上陸した賊を、地元の兵士が撃退しています。隆家は深追いをさせず、戦闘を日本国域だけに留めました。その結果、朝鮮半島沿岸に戻った刀伊は、先に被害を受けていた高麗軍に迎え撃ちされ、戦は終結したのでした。
歴史物語『大鏡』は、隆家の功績を称賛しています。
大和心かしこくおはする人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕る人をさへおしこりて戦はせ給ひければ、かやつが方の者ども、いと多く死にけるは。
隆家様は機転の利く人で、筑後・肥前・肥後など九州の地元の人々を奮い立たせたのはもちろん、大宰府の官人も一丸となって戦わせたので、賊どもの死者は多数にのぼったのだった。
(『大鏡』「道隆」)
「大和心」とは「大和魂」と同じで、当時は現場での対応力を言いました。悠長に指示を待つのではなく、現場で即決して対応した隆家の柔軟性は、姉・定子後宮での清少納言の臨機応変さを思い出させます。さすがは中関白家の一員ですね。
ちなみに、隆家が編成した軍には、地元の豪族が含まれていました。
『源氏物語』「玉鬘」巻には九州を舞台にしたエピソードがあり、この作品で唯一「兵」が登場します。地元の豪族である彼は「大夫監」と呼ばれ、大宰府の三等官「監」にして、とくに従五位の官位を与えられていました。
物語では、頭中将と夕顔の娘・玉鬘が九州に滞在していたとき、高貴な姫がいると聞きつけ、彼女にしつこく求婚する肥後の荒くれ者(結局、玉鬘は都に逃げてしまいます)として描かれています。
このように、経済力もあり軍備も備えた在地の有力者は「富豪の輩」と呼ばれ、にらまれると地元では暮らせません。すでに、朝廷にとっても無視できない存在でした。一見平穏な摂関時代にも、すでに“軍事の影”が差していたのです。
参考史料:『宋史』(中華書局 二十四史)
作品本文:『大鏡』(小学館 新編日本古典文学全集)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。