寛仁かんにん2年(1018)10月16日、あの望月の和歌をんで、娘たちの出世やみなの円満を喜んだとき、ふじわらの道長みちながはすでに病んでいました。翌日、道長自身は藤原実資さねすけにこう明かしました。

「近くばすなわち、汝の顔もことに見えず」

「近づくと、そなたの顔もはっきり見えない」

(『しょうゆう』寛仁2年10月17日)

実資が詳しく尋ねると、道長は「暗い時間でも白昼でも見えない」と答えました。

以前から道長にはひどくのどが渇く症状が出ており、ある僧などは「死期が遠くない」と実資に漏らすほどでした。当時「いんすいのやまい」と呼ばれ、道長の長兄・道隆みちたかやその息子の伊周これちかの命を奪った生活習慣病のひとつ、糖尿病の兆候と思われます。

目の見えにくさも、この病の合併症・糖尿病網膜症によるものでしょう。高血糖の状態が長く続くと、目の網膜に広がっている毛細血管が傷つき、進行すると失明することもある病気です。「この度こそは限り」――。道長は死を覚悟するに至り、寛仁3年(1019)3月、ついに出家を果たしました。

よわい54歳、死んで恥ずかしい若さでもあるまい」「過去にも将来にも我ほどの成功者はない」。『えい物語』(巻15)によれば、娘3人の立后りっこうと息子たちの出世を満足げに振り返って、道長は剃髪ていはつしました。

ところが数日後、あれだけ重かった病状がどんどん軽くなり、彼は健康を取り戻します。出家による安心感が生きる力を取り戻させたのでしょう。

喜んだ道長は、住まいのつち門殿かどどのの東に仏堂を建立することを思い立ちます。1丈6尺(約4.85m)の金色の阿弥陀あみだ如来にょらい像9体を安置した仏堂で、彼の日記『どう関白かんぱく』の名はこの仏堂がもとになっています。

『栄花物語』はその建設の様子を、大工たちが200~300人がかりで木材を組み上げ、40~50人の職人が床板を磨き、400~500人の作業員が庭の池を掘ったと記しています。おそらく“盛った”数字ではないでしょう。

みなもとの経頼つねよりの日記『けい』には、元気になった道長も仏像の台座造りに参加したと記されています。息子の頼通よりみちをはじめぎょう殿てんじょうびと、下級官人、僧、男女を問わぬ庶民たちと一緒に、力を合わせて土や木を運んだのです。

御堂はさらに拡張され、2ちょう(東西120m×南北240m)の広大な敷地に金堂こんどうや講堂を備え、壮麗無比を誇る大寺院・ほうじょうとなりました。

当時、都では疫病が流行していました。そんな中で大規模建築を推し進めた道長は、民心とかいした傲慢ごうまんな権力者という見方もできます。一方、法成寺の本尊の大日如来だいにちにょらいは、国家鎮護と万民救済の仏です。しゅじょうすべてを救うための寺院を建立した道長は、道長なりに民のことを思っていたのかもしれません。

こうして道長は、政界だけでなく宗教界にも絶大な影響力を持つ存在となりました。せっしょうを子に譲った人物として「太閤たいこう」と呼ばれ、若くして摂政・関白という重職にいた頼通を陰に日なたに支えました。すべての公職を手放しながらも実質的には最高権力者――政治の私物化とも新しい時代の到来とも言える、未曾有みぞうの繁栄期をひらいたのです。

摂政・関白となった頼通(渡邊圭祐)。

そんな道長ですが、出世しておごりがちな息子、娘たちの言動にはつねに厳しく目を光らせていました。

万寿まんじゅ2年(1025)のこと。道長の二女で皇太后こうたいごう(三条天皇の皇后)・妍子が催したしょうがつたいきょう(正月に臣下を招いてもてなす公式行事)は、彼女の贅沢ぜいたく好きを反映してあまりにも華美なものとなりました。

妍子の女房たちは寝食も忘れて装束を用意し、美しいかさいろ(カラーコーディネートを凝らした重ね着)を競いました。

一条天皇の時代には贅沢禁止令が出され、うちぎ(重ねて羽織はおる装束)は5枚と定められていましたが(ドラマの第36回、祝宴中に実資が女房の装束をチェックしていましたね/コラム#36参照)、このときの妍子はお構いなしで、女房たちは15枚、18枚、中には20枚以上の袿を着込んだ者もいました。

その上にさらに表着うわぎからぎぬ(腰から下にまとう衣)をつけるので、まばゆいばかりの豪華さです。ただ、あまりの重さに身動きがとれない者もいました。袖口は重ね着の厚みが1尺(約30㎝)あまりに及び、はちきれんばかり。まるで小さな火鉢のように見えたということです。

道長の次女・妍子(倉沢杏菜)。

この過剰な華美さはひんしゅくを買い、実資が頼通に苦言を呈します。道長は参会していませんでしたが、頼通から報告を受け激怒しました。おきてやぶりが過ぎる皇太后妍子に対し、「すべてすべてさらにさらにうけたまわらじ(全部全部絶対絶対許さん)」と言ったとは、『栄花物語』(巻24)が記している道長の言葉です。

『栄花物語』には妍子周辺の女房が収集した情報が多く、これは道長の生の言葉だった可能性があります。道長は頼通にも腹を立て、「こんなことを黙認する奴がいるか!」と怒鳴どなりつけました。

このとき、道長すでに60歳。年をとっても公事に目を光らせ、娘や息子の指導に心を砕いていたのです。

 

史料本文:『小右記』(岩波書店 大日本古記録)
作品本文:『栄花物語』(小学館 新編日本古典文学全集)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。