寛弘5年(1008)9月、彰子は入内から足掛け10年で初産の時を迎えました。紫式部がこのとき、おそらく藤原道長の命で制作した『紫式部日記』は、彰子が里帰りして以降の土御門邸の緊張感をリアルに写し取りつつ、36時間にわたる御産、皇子誕生後の晴れの儀式などの様子を綴った“現場密着ルポ”です。
秋の気配入り立つままに、土御門殿の有様、いはんかたなくをかし。
秋の気配が立ちそめるにつれ、ここ土御門殿の佇まいは、えも言われず趣を深めている。
(『紫式部日記』寛弘5年7月)
土御門殿は、初秋の7月(旧暦)には、出産予定の9月に向け臨戦態勢に入りました。邸内に12名の僧が泊まり込み、輪番で読経します。24時間絶えることのない安産祈願「不断の御読経」です。
また道長は、彰子の寝殿の隣の棟に100余名の僧たちを集め、「五壇の御修法」をさせました。不動明王を中央に、大威徳、軍荼利、金剛夜叉、降三世の厳めしい明王像5体を並べ、各々の像につき20名の僧たちが大声で祈祷します。さらには渡り廊下を踏み鳴らして寝殿に移動し、彰子に加持を行います。
紫式部はそのすべてを彰子のそばで見聞きし、記録しました。
9月9日深夜、彰子に陣痛の兆候が表れると、道長はさらに体制を整えました。高僧の祈祷に加え、仏法の修験者や陰陽師を集結させ邪気払いをさせたのです。
中でも念入りだったのは物の怪調伏です。通常は霊媒の少女、僧、世話係の女房の計3名で調伏に当たりますが、道長はこれを5班も設けました。道長の栄花の裏で無念の死に倒れた人々が、今こそ怨霊となり彰子を襲う――それを恐れたのです。
霊媒は、病人や産婦(今回は彰子)に憑いた物の怪を剥がして自分に憑かせるのが役割です。僧が祈祷し、霊媒がトランス状態となって大声をあげるなど、物の怪憑きの様相が現れれば、引き剝がし成功です。
しかしこのときは、霊媒に強力な物の怪が乗り移って大暴れし、僧がてこずる班がある一方、まったく霊媒に物の怪が憑かない班もあるなど調伏は難渋しました。そして、道長の家族や紫式部たち女房が付きっきりで祈り、一条天皇が遣わした内裏の女房や公卿ら貴族たちが邸内にひしめく中、彰子は難産に耐えて出産しました。
平らかにおはします嬉しさの類ひも無きに、男にさへおはしましける喜び、いかがはなのめならむ。
ご無事だった嬉しさに加えて、生まれたのが男子でいらっしゃった喜びは大変なものだ。
(『紫式部日記』寛弘5年9月11日正午)
紫式部たちは、まずは彰子の生存、そして皇子の誕生を喜び、沸き立ったのでした。
子どもが生まれると、誕生を祝う「産養」が何度も催されます。ドラマにも描かれた11月1日の「五十日の祝い(誕生50日の祝い)」はとくに豪勢でした。紫式部はこの夜の一部始終も克明に記しており、そのさまは絵巻物『紫式部日記絵巻』(鎌倉初期成立)にも取り上げられました。
無礼講の宴で、彰子御前の部屋の御簾が巻き上げられると、真っ先に上がり込んだのは右大臣藤原顕光(65)。女房が隠れていた几帳(布がかけられた衝立)の綴じ目を破り、扇を取り上げるなどセクハラ的な“お戯れ”ぶりです。(参照:『紫式部日記絵巻』左上)
顕光は政界で道長に次ぐナンバー2ながら無能さで知られ、人柄も政治の実務も「愚」と評される人物でした。彼の娘の元子は一条天皇の女御で、彰子のライバルのはず。なのに酔っぱらって羽目を外す脇の甘さを、紫式部は見逃しません。
そこへ藤原斉信(42)が割って入り、歌で人々の目を自分に集めます(参照:『紫式部日記絵巻』中央)。彼は彰子の中宮大夫(中宮職の長官)で、宴ではホスト側。顕光によって雰囲気がまずくなりかけていると見るや、場の空気を変えたのです。彰子が立后して8年余、中宮職の要職に在り続けた彼は彰子と運命共同体。皇子誕生にひと安心し、さらなる出世を夢見て汗を流す姿です。
一方藤原実資(52)は、女房の袖口を捉えて不思議な行動をとっています(参照:『紫式部日記絵巻』中央下)。これはセクハラ行為ではなく、装束が勅令を破って華美になっていないか、枚数を数えているのです。酒席でも国の秩序や財政に気を配る真面目さに、紫式部は心惹かれています。
長押の辺りでは、藤原公任(43)が「失礼、この辺りに若紫さんはお控えかな」と覗きます(参照:『紫式部日記絵巻』右)。「若紫」は『源氏物語』のヒロインの名。このときすでに「若紫」巻が書かれており、彼がそれを読んでいたことを示す発言で(コラム番外編①参照)、ことに『源氏物語』研究史では重要な一言になっています。
じつは、紫式部は公任のこの呼びかけを無視しています。今日の主役は彰子と皇子、『源氏物語』をめぐり自分が目立ってしまうことを避けたのでしょう。
また、絵巻には見えませんが、藤原隆家(30)は部屋の隅にいました。女房を引っ張り、聞きにくい冗談を放ちますが、道長は大目に見ています。これが当時の隆家の在り方――道長傘下の末端に位置する暴れ者です。
この日、公卿たちは皆それぞれの立場・歴史を負って宴に集い、紫式部は鋭い観察眼で彼らを記し取りました。まさに「女房・紫式部は見た」と言える記録なのです。
作品本文:『紫式部日記』(角川ソフィア文庫『紫式部日記 現代語訳付き』)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。