ドラマでは、相変わらず蔦重(横浜流星)の試行錯誤が続いています。他方で、政治の世界では一つの動きがありました。田安賢丸(のちの松平定信/寺田心)の白河藩・久松松平家への養子入りです。
松平定信は、御三卿の一つである田安徳川家(領地10万石)の初代当主・田安宗武の3男として、宝暦8年(1758)12月に生まれました。そして、翌年正月には賢丸と命名されます。
今回のコラムでは、御三家と御三卿の解説を兼ねながら、当時の徳川家の状況を少し掘り下げてみることにしましょう。
御三家といわれる尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家は、それぞれ徳川家康の実子である義直(9男)・頼宣(10男)・頼房(11男)を祖とする家です。徳川宗家(将軍家)に次ぐ待遇であり、将軍に後継がいない場合はこの三家のどれかから養子を出すことを想定していました。
一方、御三卿とは8代将軍・吉宗が創設したもので、田安家と一橋家、清水家を指します。田安家と一橋家は吉宗の息子たち(3男 宗武と4男 宗尹)が初代当主に、清水家は吉宗の実子である9代将軍・家重の次男・重好(ドラマで演じるのは落合モトキ)が初代当主となりました。
時はさかのぼりますが、徳川宗家は4代将軍・家綱の代で、家康からの直系による相続が途絶え、“養子将軍”の時代に入ります。5代将軍・綱吉(3代将軍・家光の4男で舘林藩主)も、6代将軍・家宣(家光の3男・徳川綱重の長男で甲府藩主)も、じつは養子で将軍家に入りました。7代将軍・家継は家宣の実子でしたが、わずか8歳で逝去しました。
ここで、初めて御三家から養子を迎えるというカードが切られ、紀州徳川家から将軍家に入ったのが8代将軍・吉宗です。ただ、吉宗は同じ徳川家とはいっても、先代の家継からはかなり遠い親戚になります。
この点で、吉宗以降の徳川家は「第2王朝」と位置付けることができます。さらに、吉宗が新たに創設した御三卿が、将軍家や御三家を含め他の大名家へ養子を供給する機能を果たしていくことになります。

さて、明和8年(1771)には定信の父・宗武が亡くなり、長男の治察(ドラマでは「はるあき」)が田安家を相続しました。安永3年(1774)3月には、賢丸が白河藩(領知11万石)の久松松平家の当主・定邦の婿養子となることが決まりました。同年4月には、賢丸から定信に名前を改めます。
白河藩の“殿席上昇”が託された定信の養子入り
白河藩の久松松平家としては、殿席(家格)の上昇を企図して定信を婿養子に迎えたようです。
江戸城の殿席(家格)

*赤字は編集部
ドラマには登場しませんでしたが、定信にはもう一人の兄がいました。定国(宗武の次男)です。明和5年、松山藩の久松松平家が定国を婿養子に迎えた後、江戸城内での殿席が上昇するという前例(帝鑑間席→溜詰)がありました。溜詰になると、老中から幕政に関する説明を受けるといった政治顧問的な任務がありました。
そのため、ずっと帝鑑間席であった白河藩は、田沼意次(ドラマで演じるのは渡辺謙)に賄賂を贈って、定信の養子入りを何度も要望していました。
意次や大奥の老女はこの話をしきりに勧めました。これに対して、田安家側は当主・治察が病気がちで、跡継ぎもいないため断り続けます。ですが、意次から10代将軍・家治の命令であるかのように偽られ、仕方なく賢丸を養子とすることを許可することになりました。

コラム「序の五」で記したように、18世紀頃になると武力競争によって上昇を図る在り方は消滅します。戦功による領地拡大を望めない諸大名は、その代わりに江戸城内での殿席の上昇や官位の昇進などに血道を上げました。また、譜代大名(ただし小大名)は老中への出世を目指しました。
こういった儀礼・格式をめぐる競争や、幕府官僚制のなかでの出世争いなどに諸大名の関心や野心を集中させたことも、徳川の「平和」を持続させた仕組みの一つです。そして、こういう仕組みの下では当然、賄賂も横行することになります。
政界の“傀儡師”一橋治済の思惑

安永3年8月、ついに田安家当主・治察が病気で亡くなります。享年22。このとき、定信はまだ田安家にいたので、そのまま家を相続する可能性もありました。
ですが、その要望は幕府から却下され、さらには白河藩側からも藩主・定邦が中風に罹って大変なので、早く養家に移るようにと催促されます。そのため、同年閏12月には、定信は八丁堀にあった白河藩の上屋敷に移ります。
田安家は、しばらく当主不在となりました。この期間は、ドラマにも登場した定信の養母・宝蓮院(関白・近衛家久の娘で、宗武の正室)が当主代行を務めました。
天明6年(1786)8月、将軍・家治が逝去します。翌7年4月には、一橋治済(ドラマで演じるのは生田斗真)の長男で、すでに天明元年に家治の養嗣子となっていた15歳の家斉(幼名は豊千代)が11代将軍に就任します。将軍家は結果的に一橋家の系統となり、将軍の実父・治済が実権を握り始めます。

天明7年6月、田安家には治済の息子・斉匡が養子に入り、当主となります(これは、定信自身の以前からの要望だったようです)。
同じく当主がいなくなった清水家には、寛政期(1789〜1801年)に家斉の息子・敦之助が、その没後の文化期(1804〜1818年)にはやはり家斉の息子・斉順が養子に入りました。
したがって、御三卿のすべてがしだいに一橋家の系統になっていきます。

側室を何人も置いて男子をたくさん作り、大名家のみならず将軍家や御三卿・御三家にも養子に入れることで権勢を拡大していく――。この生殖と養子をめぐる政治は、治済から家斉へと色濃く引き継がれていきます。また、女子の輿入れによって閨閥(外戚、いわゆる妻方の家系を中心に形成された親族関係)も分厚く形成されていきます。
将軍・家斉は、さらに自身の子女を受け入れた大名たちには、領知の加増や所替え(移封・転地)、拝借金の貸与、官位の昇進などで優遇しました。これらの処遇は将軍政治の基盤となる一方で、幕政や幕藩関係に混乱と不公平感をもたらすことになります。
御三家と御三卿の位置や関係、対立・連携などは、なかなかに複雑です。彼らは、老中のように表立って全国政治を取り仕切ることはありませんが、将軍の跡目争いや老中の人事、大名間の官位競争の処理などに裏から口を出しました。
例えば、前述の家斉の将軍就任のほか、意次の失脚・処罰や定信の抜擢・失脚などにも大きく絡んでいきます。この辺りは、ドラマが進んでいった頃にもう一度思い出していただければ幸いです。
参考文献:
高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館)
深井雅海『江戸城――本丸御殿と幕府政治』(中公新書)
村和明・吉村雅美編『伝統と改革の時代 日本近世史を見通す2』(吉川弘文館)
荒木裕行・小野将編『体制危機の到来 日本近世史を見通す3』(吉川弘文館)
東京大学グローバル地域研究機構特任研究員。日本近世史・思想史研究者。政治改革・出版統制やそれらに関与した知識人について研究している。早稲田大学第一文学部卒、東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。著書・論文に『近世日本の政治改革と知識人』(東京大学出版会)、『日本近世史入門』(編著 勉誠社)、『体制危機の到来』(共著 吉川弘文館)など。