田沼意次と松平定信(田安賢丸)。ふたりのバチバチのライバル関係が大河ドラマ「べらぼう」をますますヒートアップさせています。今回の“「べらぼう」の地を歩く”は、蔦重が生きた時代を形づくった意次と定信、それぞれが生まれた場所を訪ねました。
※この記事は、NHK財団が千代田区観光協会と一緒に制作するPR冊子のための取材などをもとに構成したものです
徳川御三卿「田安家」に生まれた定信
定信が生まれたのは、田安家の屋敷。それは、あの「日本武道館」がたつ場所、千代田区北の丸公園の中です。屋敷は残っていませんが、そのことを今に伝えてくれるのが「田安門」です。
地下鉄・九段下駅を出て九段坂を上って北の丸公園に入り、「日本武道館」のすぐ手前にあるのが田安門。武道館へはロックやポップスのコンサートで何度も訪れていますが、田安門を意識してこの場所に来るのははじめて……。

その大きさと重厚さに圧倒されます。
享保16年(1731)、八代将軍吉宗の第二子宗武は、ここ田安門内に邸地を与えられました。これが田安家のはじまりです。
現在の北の丸公園の西側一帯は田安家が所有していて、宗武の子である賢丸、後の松平定信は、宝暦8年(1758)ここで生まれました。蔦重が8歳ないし9歳のころですね。ちなみにお隣、東側一帯を所有していたのは、同じく御三卿の清水家です。(御三卿は、田安家・清水家・一橋家です)

「田安門がいつ築かれたのか、正確なことはわかっていませんが、慶長12年(1607)にはすでに存在していた記録があります。その後、何度か修復されていますが、確認されている限りでは、江戸城の中で現存する最古の城門となっています」と話すのは千代田区立日比谷図書文化館 文化財事務室・学芸員の篠原杏奈さん。
篠原さん 「田安門は北に面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門から成る“枡形門”です。枡形門は、上から見ると枡のように「ロ」形になっていて、直進できないようになっています。防衛上の理由からです」

ちなみに、大河ドラマ「どうする家康」でも登場した千姫や、徳川家光の乳母・春日局の屋敷もこの門内にありました。

田安門の歴史を伝える案内板 国の重要文化財に指定されている。
定信は白河藩の養子になることが決まったあとも16歳までこの田安屋敷で過ごし、その後、八丁堀にある久松松平家の上屋敷に移りました。

旗本の家に生まれた田沼意次
一方の田沼意次は、旗本だった父・田沼意行のもと、江戸・本郷弓町(いまの文京区本郷)に生まれました。享保4年(1719)のことです。
父の意行はもともと紀州藩士で、藩主だった吉宗が将軍になったことで江戸に入り、旗本になりました。将軍吉宗の身の回りの雑務をする小姓を務めていたこともあります。
将軍を輩出できる徳川御三卿出身の定信とは対照的な家柄で、意次が「成り上がり者」と呼ばれる所以ですね 。

田沼家に残る系譜類には父・意行が「本郷弓町山田久米之丞上屋敷」を拝領し、屋敷としたと記されています。今回の取材では残念ながら、その場所が本郷弓町のどこだったのか、特定するには至りませんでしたが、意次の調査研究を行っている牧之原市史料館に尋ねたところ、意次はここに「寛延元年(1748)まで住んでいた」ということがわかりました。
寛延元年というと意次は30歳。ずいぶんと長い間、住んでいたのですね。ちなみに、その翌年に長男・意知が誕生しています。
本郷一丁目には当時の面影をしのぶものが残っています(1月12日に放送された第2回「大河ドラマ『べらぼう』紀行」でも取り上げられていましたね)

推定樹齢600年の大きなクスノキです。幹まわりはおよそ8.5メートル。全体を写真に収めるのに苦労しました。

意次は本郷弓町に住んでいる間に成人し、家督を継ぎ、小姓組(将軍の親衛隊・警護役)のトップ=番頭を務めるなど、出世街道を突き進んでいきました。この大木を見上げて、将来への期待に胸を膨らませていたのかもしれません。
「本郷弓町のクス」へは、地下鉄「本郷三丁目駅」から徒歩5分程度。5~6月にはクリーム色の小さな花を咲かせるそうです。
(取材・文 平岡大典[NHK財団])
写真:(田安門)Kosuke Kurata
(取材協力:千代田区観光協会、千代田区立日比谷図書文化館文化財事務室、牧之原市史料館)
この記事は、NHK財団が制作するPR冊子「『べらぼう』+千代田区観光協会」(4月以降配布開始予定)のために取材した際の情報などをもとに構成しました。
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