第19回、ふじわらの伊周これちかは恋人(ドラマでは光子)の心変わりを疑い、隆家たかいえとともに彼女の邸宅の前で、憎き“おとこ”を待ち伏せました。しかし邸内から現れ、隆家の放った矢に腰を抜かした人物は、ざんいん(出家後の花山天皇)でした。

伊周の恋人は藤原斉信ただのぶの妹で、5人姉妹の三女です(下図)。姉妹の中でもっとも美しく、父は「女子は器量が重要」と溺愛しました。その父が亡くなり、彼女が豪邸を相続したのですが、そこには妹たちも同居していました。じつは、花山院が通っていたのは四女の儼子。伊周の疑いはまったくの勘違いだったのです。

歴史物語『えい物語』によれば、花山院が儼子に恋文を送りつけたり、ときには邸宅まで押しかけたりしていることを、伊周は聞いていました。しかし、伊周は光子の美しさを知っていたので、言い寄られているのは儼子ではなく光子だと思い込んで隆家に相談したのです。「腹が立ってならぬ。どうしたものか」と。隆家の答えは「なら、俺に任せてくれよ。朝飯前さ」でした。

隆家は好戦的な性格でした。道隆みちたかが生きていたなかの関白かんぱく全盛のころ、花山院と戦争ごっこのような勝負をしたことがありました。

武装した70〜80人もの寺男たちが通せんぼしている花山院邸の前の道を、牛車ぎっしゃで通り抜けられるかどうか……。いたってシンプルな勝負ですが、闘い好きで知られていた隆家を、花山院が「お前でも通れまい」と挑発したのです。

勝負の当日、門前の道は寺男たちでごった返しています。隆家は隆家で50〜60人の部下を引き連れ,本人は派手な衣装で極上の牛車に箱乗りして登場し、邸宅前は合戦さながらの様相を呈しました。

結果、勝負は花山院の勝ち。数時間にらみ合ったものの、隆家の牛車は花山院邸の門前を突破できませんでした。みやこびとは、これをまたとなく面白い見せものと感じたということです(『大鏡』「道隆」)。

それ以来、花山院と隆家は因縁の間柄だったのです。隆家は花山院に一矢報いたいと思っていたのでしょう。とはいえ、門前突破のときの武器は石と杖だけ。それが今回は違いました。

弓矢といふものしてとかくしたまひければ、おんの袖より矢は通りにけり

(弓矢などという物騒なもので何やらなさったものだから、院のお召し物の袖を矢が貫通してしまったのだ)

(『栄花物語』巻四)

一つ間違えれば、矢は花山院に当たっていたおそれさえあります。院は震えあがって逃げ帰りました。そして伊周と隆家も立ち去ったあと、現場では双方の部下たちが残って乱闘を繰り広げ、死者まで出る惨事となりました。

藤原実資さねすけは、この日の日記に記しています。

道長みちなが殿から連絡があり、花山法皇と内大臣ないだいじん伊周・ちゅうごん隆家一派が故藤原為光ためみつの邸宅前で遭遇、乱闘事件発生。院側の手下が2人殺害され、首を持ち去られた模様」
(『小右記』ちょうとく2年〈996〉正月16日)。

道長に知らせたのは、姉妹の兄・斉信でしょう。ときに実資は検非違使けびいしちょう(京中警察)の長官で、現在の警視総監に当たります。彼は本格的な捜査に着手し、事件はこのあと大きく発展することになります。中関白家の没落のきっかけ、「長徳の政変」の始まりです。

それにしても、花山院は10年前のかん2年(986)に出家しており、仏教では僧に女性との関係を禁じているはずです。が、花山院はそのかいを無視し、出家後に何人もの女性と通じ、子どもを産ませました。自分の乳母の娘を愛人とし、さらにその娘とも関係し、母子それぞれに3人ずつ皇子・皇女を産ませてもいます。

また、母方の叔母とも男女の関係にありましたが、やがて腹違いの弟である為尊ためたか親王にあてがってしまいました。ちなみに、為尊親王は歌人の和泉いずみしきとのW不倫スキャンダルでも有名です。兄弟そろって乱脈と言わざるを得ません。

ただ事件の折、花山院が通い始めていた儼子は、彼がかつて激しく愛したちょう・忯子の妹です(上図)。もとはといえば、彼の出家も忯子の供養が目的でした。忯子は花山院にとって運命の女性だったといえます。花山院の胸中にはずっと忯子への思いがあり、そのために妹の儼子に声を掛けたのかもしれません。

長徳の政変の“火種”となってしまった、斉信の妹たち。事件の後はどのような人生を送ったのでしょう。伊周の恋人だった三女(光子)は、伊周の失脚後に尼となりました。儼子は、寛弘かんこう5年(1008)に花山院が崩御ほうぎょすると道長の嫡妻・倫子の女房となり、やがて道長に愛されて彼の子どもを産みました。

ちなみに五女の穠子も、同じころに夫を亡くして道長の次女の女房となり、儼子同様に道長のちょうあいを受けました。伊周と花山院の運命を変えた姉妹は、道長をもとりこにするほどの魅力を持った女性たちだったのです。

 

引用本文:『栄花物語』(小学館 新編日本古典文学全集)

 

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。