ちゅうぐう彰子がいちじょう天皇の第二皇子・敦成あつひら親王を産むと、第一皇子・敦康あつやす親王の立場は微妙なものになりました。先例に従えば、一条天皇が退位し現東宮とうぐう春宮とうぐうとも。皇太子の意)の居貞いやさだ親王(のちのさんじょう天皇)が即位した暁には、敦康親王が東宮となるはずです(下図)。

敦康親王は、中宮(皇后定子)の子にして第一皇子。この2つの条件がそろった親王が天皇に即位しなかった例は、平安時代にありません。しかし敦康親王が即位すれば、その後見こうけん役をめぐって、実の伯父・ふじわらの伊周これちかと養祖父である左大臣藤原道長みちながの間で軋轢あつれきが起きることはほぼ確実です。

そんななか、娘の彰子が敦成親王を産んだことは道長には願ってもない幸運でした。血を分けた孫が即位したときこそ、道長にとって他の家に干渉されることなく天皇と密着し、自らの政治を行える時代の到来なのです。

ただ、その世はいつ来るのか。定石どおりの即位順なら、敦康親王の次は居貞親王(三条天皇)の長男のあつあきら親王。敦成親王の即位は少なくともその後で、一条天皇から数えて4代以降となります(上図)。

寛弘かんこう5年現在、一条天皇は29歳、居貞親王は33歳。まだ若いこの2人の時代がそれぞれ終わり、その後の2代(敦康親王と敦明親王の世)も終えるには、まず20年はかかるでしょう。43歳の道長がそのときまだ生きているかどうか。

さらに敦康親王に皇子みこが生まれれば、敦成親王即位の可能性が消えるおそれさえあります。確実に敦成親王が即位し、道長がその後見となるには、敦康親王を皇位継承から外さなくてはならないのです(上図の赤色の矢印)。

このような皇位継承の“先読み”が始まったさきの寛弘6年(1009)正月、伊周が関係するじゅ事件が発覚します。一条天皇は伊周に敦康親王の後見を期待し、徐々に政界に復帰させていました。しかしこの事件によって、伊周の政治生命は実質上断たれます。

事件の経緯は藤原行成ゆきなりの日記『ごん』や、朝廷の公的記録に基づく『日本りゃく』、また政務に関する文書集『政事要略』によって知ることができます。

それらを総合すると正月30日、中宮彰子と敦成親王を呪詛するえん(まじない札)が発見され、道長に届けられました。すみやかに捜査が開始され、2月4日には呪詛を実行した僧・円能えんのうを逮捕。翌日には円能を拷問にかけて自白させ、事件の輪郭が明らかになりました。『政事要略』はその生々しい取り調べ調書をそのまま載せています。

円能の自白によれば、彰子と敦成に加え、道長も呪詛の標的でした。動機はこの3人が伊周の成功の妨げになっているからであり、目的は彼らをこの世から亡きものにすること。道長たちは命を狙われたのです。

源方理(左/阿部翔平)と光子(兵藤公美)。ドラマ第37回より。

依頼人は2人おり、1人目は伊周の亡くなった母・たかしなの貴子の姉妹で、女官でもあった光子。伊周がちょうとくの政変(山院ざんいん襲撃事件/コラム#19参照)でざいに流罪となった際には、ともに彼女も下向していました。おいの伊周に強い思いを抱くあまりの犯行と言えそうです。

もう1人はみなもとの方理のりまさといい、伊周の妻の兄弟と推測される人物です。長徳の政変のときには伊周たちと同座したとしてせいりょう殿でんへの出入り停止処分を受けており、なかの関白かんぱく(伊周の父・道隆みちたかを祖とする一族)に肩入れする立場だったことは間違いありません。

光子と方理が共犯かどうかは、円能も知りませんでした。円能は2人にそれぞれ1枚ずつ厭府を渡し、報酬として光子からは絹いっぴき、方理からは紅花染めの打掛を受け取りました。当時、絹一疋は米2石相当。これは庶民の雑役ざつえきの労賃100~200日分に相当します。

律令では、呪詛をした者の罪状は絞首刑に当たります。ただ罪一等を減ずる措置により、2月20日、光子と方理には除名(朝廷から与えられた財産を没収したうえ官位を剥奪)、円能には還俗げんぞく(僧籍を剥奪はくだつ)のうえ除名の処分が言い渡されました。

また伊周に対しても、事件への直接的関与はないものの、彼に根源の理由(責任)があるとのことで、朝廷での勤務停止という厳しいちょくが下されました。

この事件は、関係者に深刻な衝撃を与えました。敦康親王と一条天皇はそろって病に倒れ、とくに天皇は責任の重さを痛感し落胆したからでしょうか、勅を下したのちも長く体調を崩しました。

もちろん、伊周当人が受けた打撃も相当なものでした。6月に伊周への処分は取り消されますが、もはや政界復帰の意欲を取り戻す余力はありませんでした。光子と方理は、伊周を思うあまり、逆にその足をすくうことになったのです。

長徳の政変での没落に加え、この呪詛事件によって伊周には闇のイメージが定着しました。『小右記』によれば、伊周の死後もこの家は「おうの家(災いの家)」と呼ばれました。

そして、伊周の息子・道雅みちまさも「あの家で育ったからには、必ずまた凶事を起こす」と皆にささやかれるのです。実際、彼は呪いの言葉や暴言を吐いてはみ嫌われる行動を繰り返します。父の影を引きずり、すねて生きる――それが中関白家の末裔まつえいの姿でした。

 

参考文献:
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房:ミネルヴァ日本評伝選)
『権記』(臨川書店:増補史料大成)
『政事要略』(吉川弘文館:新訂増補 国史大系)
『小右記』(岩波書店:大日本古記録)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。