「朕の人生とは何であろうか」
第9回の放送で、花山天皇(968~1008)は苦しげな表情でつぶやきました。女好きでエキセントリックな印象が目立つ彼ですが、その心には深い闇がありました。花山天皇を理解するポイントは3つ、「祟り」と「政争」、「愛・宗教・芸術」です。
まずは祟りについて。花山天皇の家系は、父(冷泉天皇)方も母(藤原伊尹の娘・懐子)方も“祟り”を背負っていたと言われます。
冷泉天皇に祟ったとされるのは、平安朝最強の怨霊と言われる藤原元方の霊です 。
元方(上図/父方の関係者:青枠の右上)は、村上天皇に入内した娘の佑姫が第一皇子・広平親王を産んだため、あわよくば東宮(皇太子)にと期待したのですが、その数か月後に右大臣・藤原師輔の娘・安子が第二皇子(のちの冷泉天皇)を産み、こちらの皇子が東宮になりました。
夢が潰えて失望した元方は病にかかり、苦しみながら死去。深い恨みから怨霊となって、その後、師輔や冷泉天皇、その子孫を祟ったと信じられたのです。
冷泉天皇には、幼い頃から精神疾患の症状が現れました。一度発作が起きると数か月は収まらず、即位して2年で弟の円融天皇に譲位することになりました。祟りは兄弟や親子など一族に及ぶと考えられたので、恐怖は周囲に及んだでしょう。
円融天皇は15年の政権を担ったのち退位しましたが、上皇となり病に倒れたとき、霊に憑依された様子で「我は元方卿の霊である」と名乗りました(『小右記』寛和元年⦅985⦆8月27日)。藤原実資は、ことの次第を花山天皇に報告したと『小右記』に記しています。聞いた花山天皇は恐怖に震えたのではないでしょうか。
続いて母方の家系(上図/母方の家系:黄色枠)を見てみましょう。花山天皇は、東宮だった5歳のときに母方の祖父・伊尹(49歳)を、7歳のときに叔父の挙賢(22歳)と義孝(21歳)を、8歳のときに母の懐子(31歳)を、立て続けに喪いました。とくに挙賢と義孝は、天然痘のため2人が同じ日に亡くなって、世間の同情を集めました。
やがて伊尹一家の不幸は、上図には入っていませんが藤原朝成という公卿による祟りだという風聞が流れ始めます(『大鏡』)。理由は、伊尹と朝成が蔵人頭(天皇の主席秘書)の職を巡って争ったためとも、朝成が大納言になりたいと望んだのに伊尹が便宜を図らなかったためとも言われます。
ともあれ伊尹の冷淡な仕打ちに、朝成が「この一族を永久に絶やそう」と憤死し、悪霊になったというのです。
実際は、二人には蔵人頭争いの事実はありませんでした。また、伊尹が死んだときに朝成はまだ生きていたので、悪霊になって祟ったというのは作り話です。しかし噂は収まらず、今度は“生き霊”になった朝成として説話化され、伝え続けられました(『古事談』)。
3年間に一家から4人の死者が出たことを、平安時代の人々は彼らなりに“合理的”に解釈しないではいられなかったのでしょう。花山天皇が17歳で即位したとき、後見してくれる外戚が28歳の叔父・藤原義懐一人だった裏には、こうした事情があったのです。
次に、政争です。花山天皇は、父・冷泉天皇が退位し叔父・円融天皇が即位した際、わずか生後10か月の幼さで東宮となりました。その直前に起きたのが「安和の変」(969年)です(序の巻③参照)。源氏の実力者だった左大臣・源高明を藤原氏が排除した事件で、祖父・伊尹も謀略に加わったと考えられています。
また、その後に始まった円融天皇の時代は、藤原氏が一族で骨肉の争いを繰り返した時代でした。東宮時代の15年の間、花山天皇は間近にさまざまな政争を見続けてきたことになります。
円融天皇は、右大臣・藤原兼家の娘である詮子との間に皇子(懐仁親王)をもうける一方、関白・藤原頼忠の娘である遵子を中宮にして、藤原氏内の権力バランスを取ろうとしました。しかし、結局は懐仁親王を盾にした右大臣に押しきられ、退位に追い込まれたことはドラマに描かれた通りです。
時代は花山天皇の世となりましたが、兼家は孫の懐仁親王の1日も早い即位を望んでおり、花山天皇には非協力でした。義懐たちが清新な政策を打ち出そうとする傍ら、太政大臣になった頼忠、左大臣・源雅信、右大臣・兼家は、1か月に平均3日程度しか出仕していなかったという研究報告もあります(今井源衛『花山院の生涯』)。
父母一族にまつわる祟りと、天皇が藤原氏に利用され蔑ろにされる状況下で、花山天皇は17歳から19歳という多感な青年期を天皇として生き、強い閉塞感を抱いていたのではないでしょうか。「朕の人生とは何であろうか」のつぶやきは、彼の心からの思いだったように感じられます。
一方、彼は「愛・宗教・芸術」に救いを求めました。花山天皇が忯子たち女性に強く執着したことや仏教にすがろうとしたことは、閉塞感からの脱出を求めていたことの現れでしょう。
また、花山天皇は東宮時代から歌合せを開くなど、文学に秀でていました。後年は御所の建築や調度に工夫を凝らすなど、アートの才能もあったようです。加えて馬が大好きでした。当時の馬が今のバイクのような乗り物だと考えれば、その好みも何となく納得できますね。
天皇退位ののちは旅に出て、帰京後も彼らしさを貫いて生きました。花山天皇の爆発的エネルギーは尽きることはありません。ドラマでも多分まだまだ活躍しますよ。
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。