藤原道長(966~1027)は、平安時代で最も栄華を誇った貴族として知られますが、その父・兼家(929~990)は、最も剛腕の政治家だったと言えるでしょう。
前回のコラムでご説明した通り、官人(国家公務員)で一位から五位の官位位階を持つ者が貴族ですが、さらに一位から三位のトップ層を「公卿」と呼びます。公卿は現在の閣僚に当たり、会議を開いて国の問題を話し合い、その結果を最上級の者が天皇に奏上して決定を仰ぎます。つまり、公卿は国政に携わる政治家です。
彼らの役職は上の地位から、臨時職の摂政・関白。また、これも適任者のいる時だけ置かれる太政大臣。続いて常置職の左大臣と右大臣、時には左右大臣を飛び越えて出世することもある内大臣(臨時職)があります。ここまでが大臣で、あとは大納言・中納言・参議と続きます。閣議に参加できる参議には、官位が四位の者が就くこともあります。
公卿の数は20人~30人ほどです。200人前後の貴族の中でも一握りの彼らは、さらに上を目指してしのぎを削りました。
ところで、道長が12歳の貞元2(977)年当時、21人の公卿のうち12人は藤原氏で、残りの9人が源氏でした。桓武天皇の時代(781〜806)には、紀氏や大伴氏などいろいろな氏族が公卿を務めたのですが、藤原氏は200年をかけて、目障りな他の氏族出身者を次々と排斥してきたのです。
貞観8年(866)の応天門の変では伴善男が、延喜元(901)年には学者一族から右大臣になっていた菅原道真が失脚しました。どちらも藤原氏の陰謀と考えられています。
また安和2(969)年には、やはり藤原氏が暗躍し、醍醐天皇の皇子で源氏の姓を賜った実力者の左大臣・源高明が、大宰府に左遷となりました。道長が数え年4歳の時ですから、都が騒然となった様子を覚えていたかもしれません。
こうして公卿層が藤原氏と藤原氏寄りの源氏だけになってしまうと、今度は藤原氏内部での骨肉の争いが始まります。道長の父・兼家は、まさにその時代に修羅場を経験した政治家でした。
藤原氏の敏腕政治家にとって、ライバルは兄弟です。道長の祖父の師輔は兄の実頼をおびやかす実力者で、「一苦しき二(一番の者が苦しがる二番手)」と呼ばれました(『栄花物語』巻一)。師輔には3人の息子がおり、諸芸に秀でた長男・伊尹は円融天皇が即位すると政権トップの座につきましたが、短命にも49歳で亡くなってしまいます。
この時、誰も予期しなかったことが起こります。兄弟でもっとも官位が下の兼通が、何と関白に立ったのです。その頃、兼通は従三位で権大納言にすぎません。一方、藤原本家の実頼の息子・頼忠は正三位右大臣。兄・兼通より有能で早く出世した兼家は正三位大納言。皆出し抜かれ、さぞや驚いたことでしょう。
平安時代の歴史物語『大鏡』「兼通」によれば、兼通は円融天皇の亡き母である妹・安子に一筆書かせていたといいます。「関白着任は兄弟順に……」と。そして、伊尹が死ぬとそれを天皇に見せ、母思いの天皇はその遺言に従ったというわけです。
兼通は自分より有能な兼家をとことん憎んでいたようで、自分が関白だった間は、弟を全く昇進させませんでした。また、自分の死にあたっては頼忠に地位を譲り、兼家を閑職に落とす人事さえ行いました。このため、兼家は何年も出世が遅れることになったのです。
その悔しさも手伝ったのでしょう。円融天皇の末期から次の花山天皇の時代にかけて、兼家は天皇に揺さぶりをかけ、陰謀まで働き、力づくで最高権力者の座を手に入れます。
道長は、こうした父たちの争いを生まれて以来ずっとそばで見続けてきました。父も三男、自分も三男。さて、この道長がどんな人生を歩むのか。それは放送をお楽しみに。
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。