寛弘(かんこう)8年(1011)秋、紫式部の弟・(ふじ)(わらの)惟規(のぶのり)は亡くなりました。恋に生き、和歌を愛した人生でした。

彼の和歌は高く評価されており、『()(しゅう)遺和歌(いわか)(しゅう)』以下の(ちょく)(せん)(しゅう)に10首が入集しています。長く生きればもっと多くが採られていたことでしょう。彼は私家集『藤原惟規集』も(のこ)しており、巻頭歌にはこうあります。

ある男、大和にて、ともしの火を見て
()鹿(しか)たつ ()(やま)の野原 ともす人 身をのみ()がす 何の思ひぞ

〜ある男が、大和で鹿狩りの松明(たいまつ)の火を見て〜
男鹿のたたずむ里山の野に、狩りの松明を(とも)す人がいる。火と言えば私には、この身を焦がすばかりのもの。何の火かって? そう、恋の想いの火なのだ。

(『藤原惟規集』巻頭歌)

(ことば)(がき)の冒頭は「ある男」。まるで物語の始まりのようです。和歌の中でも、夜の狩場に燃える火を恋の(ほのお)に見立てていて、幻想的・情熱的。『紫式部日記』や大河ドラマの上ではマイペースぶりが目立つ惟規ですが、歌の才能は一人前でした。

紫式部と惟規の父・為時(ためとき)は寛弘8年、()(りょう)(地方の行政官)を拝命して越後に(おもむ)きました。(さき)の越前赴任からは、実に15年ぶりの下向です。『(こん)(じゃく)物語集』によれば、惟規は老いた父を心配して後を追いましたが、道中で病にかかってしまいます。

やっとのことで越後に着いたときには、すでに危篤状態でした。父は驚きましたが、手の施しようがありません。せめて極楽往生のため念仏をさせようと、徳の高い僧が招かれました。僧は惟規の枕元で(さと)します。「死ねば(ちゅう)()という場所に行きます。鳥も動物もいない寂しい(ひろ)()ですぞ。覚悟なされ」。

すると惟規は、苦しい息の下で聞きました。「その場所には、嵐に舞う紅葉(もみじ)、風にそよぐ尾花などはありますか。松虫の声などは聞こえませんか」。どうせ中有に行くのなら、和歌の風物に心を慰めつつ旅したいと言うのです。

死ぬのは怖い。でも和歌の種さえあれば大丈夫、どこへでも行ける。惟規はそう思って、真剣に問うたのでしょう。しかし、それは仏教から見れば不真面目でしかない質問でした。「気がふれている」――。僧は呆れて逃げ帰ってしまいました。

やがて、惟規は為時が見守るなか、両手を宙にあげる仕草をしました。「何かお書きになりたいのでは?」(そば)の者が思い付き、筆に墨をつけ紙を持たせると惟規は書き始めました。

都にも わびしき人の あまたあれば なほこのたびは いかむとぞ思

ここには父上がいるけれど、都にも僕が死ねば悲しんでくれる人がたくさんいる。だから今は生きたい。そしてこの旅を終え、都へ行きたいと思……

(『今昔物語集』巻31第28話)

()(せい)の和歌の最後の1文字、「思ふ」の「ふ」の字を書きおおせずに、惟規は息絶えました。為時は、それを見て「この字は『ふ』だろう」と言い、息子の絶筆の横に「ふ」を書き添え、形見としました。父がいつも(ふところ)からこれを出して見ては泣いたので、紙はすっかり湿(しめ)り、果てには破れてなくなってしまったと、物語は伝えています。

惟規の辞世は『今昔物語集』のほか、『後拾遺和歌集』「恋三」にも採られていますが、そこでは第2句が「恋しき人の」となっています。詞書ことばがきには「京にいる恋人の斎院(さいいん)(ちゅう)(じょう)のもとに送った」とされているので、為時が息子の和歌を写して彼女に送ったのかもしれません。

いずれにせよ、惟規はこの和歌で死を覚悟しながらも生きたいと願う心を()んでいます。しもの句の「このたびはいかむ」が2つの(かけ)(ことば)「たび(旅・度)」と「いかむ(行・生)」を含み、「死の世界へ旅に行く」のではなく、「この度は生きたい」のだと言っているのです。

これと同じ掛詞を使い同じ心を詠んでいるのが、『源氏物語』「桐壺」巻に登場する(ひかる)(げん)()の母、(きり)(つぼの)(こう)()の辞世です。

限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり

もうおしまい。お別れしなくてはなりません。でもその道の悲しいこと。私が行きたいのはこの道ではありません、生きたいのは命でしたのに。

(『源氏物語』「桐壺」)

この歌の第4句、「いかまほしきは」の「いか」に「行か」と「生か」が掛けられています。光源氏の母は低い身分にもかかわらず、(みかど)に激しく愛されました。そのためほかの(きさき)からは(ねた)まれ、()(ぎょう)たちからは非難されました。

その間の彼女の思いについては、肩身の狭さや帝を頼る気持ちが曖昧(あいまい)に記されるのみで、つぶさではありません。しかし死を覚悟したこのとき、彼女は初めて肉声を発するのです。死にたくない、もっと生きたかったのだ、今それを自覚したのだと。

惟規は『源氏物語』を読んで、桐壺更衣の絶唱を知っていたのでしょうか。また紫式部は、惟規の絶唱を読み、そこに桐壺更衣と同じ言い回しを見つけて何を感じたのでしょうか。

命の(はかな)さといとおしさは、いつの時代、どこの世界でも変わりません。せめて惟規が旅立った世界に、紅葉や尾花があり松虫が鳴いていたことを祈りたいと思います。

 

作品本文 『藤原惟規集』(岩波書店:岩波文庫『紫式部集』収録)
     『今昔物語集』(小学館:新編 日本古典文学全集)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。