今回、左大臣家での姫君たちの勉強会で『蜻蛉かげろう日記』が話題に上りました。『蜻蛉日記』の作者は、藤原道長ふじわらのみちながの父・兼家かねいえしょう(側室)の一人、藤原倫寧ともやすのむすめです(下図)。藤原道綱みちつなの母とも称される彼女は、大河ドラマでは「寧子」として登場していますが、実名は伝えられていません。

この作品は、多情な兼家とのモヤモヤを赤裸々につづっているところから、主婦による“暴露系手記作品”の元祖とも言えます。『源氏物語』にも大きな影響を与えていることは、あとで述べましょう。

もとより兼家には、時姫という正妻(道長たち3兄弟の母)がいて、『蜻蛉日記』の作者は2番目の妻です。結婚の形は「通い婚」で、夫は気の向いたときに自宅から彼女の家にやってきて夜を過ごします。

しかし、息子の道綱が生まれるとすぐに兼家の浮気が始まり、作者は彼が別の女性に書いた恋文を発見。悔しさから、その手紙の端に自分の手で和歌を書きつけるなど、現代の「スマホ忘れ→SNS覗き→会話に割り込み」級のどろどろエピソードも記されています。

数日後のこと。夜明け前に彼がやって来て門を叩きました。通い婚の妻にとって大切なのは夜。その終わり頃に訪れるなど屈辱以外の何ものでもなく、作者は門を開けさせませんでした。彼は諦めて、例の女の家に行ってしまった様子。

このままでは済ませられない……。早朝、作者は改まった態度で彼に和歌を送りました。移り気を意味する、色の変わった菊の花に付けてです。「小倉百人一首」に収められていることでも知られるこの和歌は、ドラマ内で姫たちも読みあげていましたね。

なげきつつ 一人る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る
嘆きながら、一人寝床であなたを待つ夜。その明けるまでの時間がどんなに長いか、あなたはご存じないでしょうね。(『蜻蛉日記』上巻)

この歌に対し、彼からは「門が開くまで叩こうと思ったのだけれど、急な仕事で」と返事。見え透いた嘘です。でも彼は「君の怒るのはもっともだ」となだめつつ、返歌を寄越してきました。

げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も おそくあくるは わびしかりけり
わかった、わかったよ。冬の夜ならぬ真木の戸も、なかなか開かないのはつらいものだね。(同上)

「げにやげに」の茶化した言い方といい、「夜が明ける」と「戸が開く」とのダジャレ風な掛詞かけことばといい、まったく謝罪の色が見えません。作者がつらい胸中を真剣に訴えた歌をはぐらかして、しゃあしゃあとするばかり。それどころか、この後はまるで作者の公認を得たかのように、平然として例の女のところに通うようになる始末。

そんな彼の態度に自分の人生のはかなさを思い、生きているのかいないのか、自分をカゲロウのように思う作者でした。せつないですね。

このように『蜻蛉日記』は長らく、不実な夫にしいたげられた妻の哀しみの手記として読まれてきました。確かに内容はそのとおりです。でも、考えてみてください。こんな手記がどうして執筆され、発表できたのでしょうか。

作品は長編なので、作者一人の財力では紙も用意できません。実家の父は国司でそれなりに富裕ですが、中級貴族です。権力者・兼家に楯突きたくはなかったでしょう。結局この作品は、兼家自身がスポンサーとなって書かれたとしか考えられないのです。

そもそも、兼家はこの手記を「暴露もの」とは見ていなかったのかもしれません。平安時代の歴史物語『大鏡おおかがみ』でも、『蜻蛉日記』の紹介として「和歌の名手だった奥様が兼家様と交わした和歌などを記した作品」と言っており、「奥様のうらみの手記」と見てはいません。

兼家は3兄弟で、長兄・伊尹これただにも次兄・兼通かねみちにも自作の和歌集がありました。しかし兼家にはありません。ならば自分も妻に便乗して、自作を世に広めてもらおうと考えて執筆を許した、いいえ、むしろ勧めたのではないか。現在ではそう考えられています。妻である作者の苦しみなど、兼家には武勇伝にすぎなかったのでしょう。彼は、妻を利用して“みや”の名を流したことになります。

一方で、作者も兼家を利用して、書きたいことを書いたと言えます。先の浮気相手が兼家の寵愛ちょうあいを失ったときには「ああ、すっきりした!」、作者が病気の兼家を見舞ったときには「寝床からずっと私を見送ってくれた」、長谷寺参りしたときには「兼家が宇治まで迎えに来てくれた」など、のろけたエピソードもあって、しっかり自己主張しています。実にしたたかではありませんか。

もちろん、兼家を愛し、それゆえに苦しんだ作者の嘆きは嘘ではありません。だからこそ私たちは、好色な公卿くぎょうの妾となった作者の喜びも苦しみも悲しみも、『蜻蛉日記』から知ることができるのです。

なお、兼家が深く関わった女性の数は、史料で確認できるだけでも先の系図のように9人いました。内親王という高貴な女性から女房扱いの「召人」、中には息子の道隆と“シェア”した女性もいたとかで、作者でなくてもため息が出そうです。

じつは『蜻蛉日記』の冒頭には、当時の物語への批判が記されています。「世の中にあふれる古物語の端々を見れば、どこにでも転がっている嘘だらけ。あんなのでも通用するのね」。作者はこれまでの物語を作り話と喝破かっぱし、「この私こそがセレブとの結婚の実例。そう思って読んでほしい」と言って手記を書き始めるのです。

姫君と貴公子とが恋し、結婚して「めでたしめでたし」のハッピーエンド。そんな“お定まり”の物語への、リアル体験者 からの反論です。大人の女性たちの中には、他愛ない物語に飽き足りなさを感じていた読者がいたのです。

紫式部が『源氏物語』に女性たちの生きづらさをしっかりと書き込んでいるのは、こうした女性の思いを真正面から受け止めたためだと思われます。『蜻蛉日記』は『源氏物語』の成立を促した作品とも言えるのです。

引用本文:新編日本古典文学大系『蜻蛉日記』
参考文献:新日本古典文学大系『蜻蛉日記』解説

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。