ドラマの第6回、“ききょう”という名でのちの(せい)(しょう)()(ごん)が初登場しました。第7回にも登場し、何となく藤原(ふじわらの)(ただ)(のぶ)といい感じ?で目立っていましたね。

ききょうを打きゅうに誘った斉信(左/金田哲)と、藤原公任(きんとう/町田啓太)。

紫式部と清少納言が知り合いというのは、ドラマ上の演出です。清少納言は(いち)(じょう)天皇の最初の(ちゅう)(ぐう)・定子の女房(侍女)でしたが、(ちょう)(ほう)2年(1000)の定子の死により退職。紫式部は、(かん)(こう)2年(1005)に2番目の中宮・彰子に仕え始めました。

二人がそれぞれ仕えた定子と彰子が、一条天皇の(ちょう)を競っていたこと。また『紫式部日記』で、紫式部が清少納言をあしざまに書いていることから、2人は面識があり仲が悪かったと思われがちです。でも、出仕時期には5年のブランクがあるので、二人が宮中で“敵対勢力”としてすれ違ったことはありませんでした。

それに『紫式部日記』の執筆は、寛弘7年(1010)のことです。文面によれば、その時点でも清少納言のことは噂や作品でしか知らなかったようです。

紫式部と同じく、清少納言も生没年や本名は不明で、“ききょう”はドラマオリジナルの幼名です。成人名は“諾子”だったとの説が江戸時代の書物『枕草子抄』に記されていますが、根拠ははっきりしていません。

ただ、父が(きよ)(はらの)(もと)(すけ)(908~990)という高名な歌人であることは、『枕草子』その他の史料で確かです。加えて、初婚の夫が(たちばなの)(のり)(みつ)という人物であること、(てん)(げん)5年(982)に彼との間に男子(橘(のり)(なが))が生まれていることも、『枕草子』の内容や写本の注記から明らかです。

ききょうがドラマに登場した花山天皇の時代、彼女はすでに結婚して子供を産んでいたのです。出産年齢から、清少納言の生まれは(こう)(ほう)3年(966)頃、道長(みちなが)と同年かと推定されています。父の元輔が数え年59歳の時の子となります。

元輔は清少納言に強い影響を与えました。彼は10世紀中頃に活躍した歌人で、『()(きん)()()(しゅう)』に次ぐ第2の(ちょく)(せん)和歌集(天皇や上皇の命で編纂された歌集)『()(せん)和歌集』の撰者「(なし)(つぼ)の五人」の一人。清少納言は、高名な歌人の子であるからには人並み以上の歌を()んで当たり前、父の顔を汚したくないと、人前では容易に和歌を詠みませんでした。

その人の (のち)といはれぬ 身なりせば 今宵の歌を まずぞ詠ままし
(「あの名歌人の子」と言われない身だったら、今宵の和歌を真っ先に詠むのですが)
                                                                       (『枕草子』「五月の御精進のほど」)

活発で行動的な印象のある清少納言が(のぞ)かせた、繊細な一面です。
『小倉百人一首』の元輔の和歌は、

(ちぎ)りきな かたみに袖を 絞りつつ (すえ)の松山 波越さじとは
(約束したね。お互いに袖の涙を絞りながら。陸奥の名所・末の松山を波が越すことは滅多にない、私たちが別の人に心変わりすることも同じくらいないと。なのにあなたは)

女に心変わりされた男のために、元輔が代作したものです。ドラマでまひろが和歌の代作をしていたことを思い出します。元輔は器用で、家集にはたくさんの代作歌があります。権力者の家に出入りして行事の和歌や屏風を飾る歌を詠むこともしばしばで、中には天徳元年(957)、藤原実資(さねすけ)誕生の際のお七夜に詠んだ和歌なども。

アルバイトでは引く手あまただった一方、紫式部の父と同じく官位は低く、元輔はなかなか官職にありつけませんでした。「()(もく)(人事異動)」に()れた失望を詠む歌も多くあります。

『枕草子』の一節「すさまじきもの(期待外れなもの)」には、「除目に(つかさ)得ぬ人の家(人事異動で官職を得られなかった人の家)」を挙げて、今年は必ず職にありつけると胸を膨らませて集まった一族郎党のがっかりする様子をリアルに記しています。きっと清少納言の実体験なのでしょう。

第6回、漢詩の会で講師を務めた元輔(大森博史)。

ただ、元輔はとにかく明るい人でした。『(こん)(じゃく)物語集』(28巻第6話)には、彼が賀茂祭(葵祭)で沿道の見物人を大笑いさせたエピソードが記されています。

元輔は朝廷の使いとして祭りの行列に参加していましたが、馬がつまずき落馬。ぱっと起き上がったものの、冠が脱げてしまいました。当時、冠を(かぶ)っていない頭は「()(とう)」といい、現代ならズボンが脱げたような恥ずかしい姿です。しかも元輔の頭にはあるはずの(まげ)がなく、まるで素焼きの盆でもかぶったようだった……とは、サザエさんの父・波平さんの頭を想像すればぴったりでしょうか。

普通ならば、恥ずかしさにうろたえるところ。しかし元輔は落ち着き払い、わざと冠を被らずに演説を始めます。

「馬がつまずくのはよくあること。冠が落ちたのはこの頭ゆえ仕方がなく、冠を(うら)む筋合いでもない。前に冠を落とされた例もあるぞ。○○大臣は……、△△中将は……」

夕日に頭を光らせながら語り続け、「だから皆様、お笑いなさるな」とゆっくり冠を被ったとか。見ていた人たちは大爆笑でした。

『今昔物語集』は、元輔を「もの()()しく言ひて人笑はするを役とする(おきな)(物事を面白おかしく言ってしょっちゅう人を笑わせていた爺さん)」と評しています。一方、清少納言の『枕草子』にも思わず笑ってしまうフレーズが盛りだくさん。元輔の性格は、必ずや清少納言に遺伝していたと思われます。

気難しい藤原(ため)(とき)の娘で内向的な性格だった紫式部とは、まさに好対照だったのですね。


引用作品:『枕草子』『今昔物語集』…新編日本古典文学全集
     『後拾遺和歌集』…新日本古典文学大系
     『元輔集』…新編国歌大観

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。