藤原伊周と隆家の逮捕劇で都人を驚かせた長徳の政変から、1年も経たない長徳3年4月、朝廷は2人の罪を赦して都に呼び戻す決定をしました。ドラマのとおり、これは陣の定め――現在の閣議にあたる公卿会議によるものです。
3月25日、一条天皇は母・東三条院詮子の病平癒のため、天下大赦の詔を発しました。「常の恩赦では許されない者もみな赦免する」との内容です。では、国家反逆罪にあたる大罪を犯している伊周と隆家をどうするか。公卿たちに諮るよう、天皇は左大臣藤原道長に命じました。
この日の会議のことは、藤原実資が当日の日記『小右記』に詳しく記しています。それによれば、道長は天皇から受け取った議題を次のように公卿たちに伝えました。
「大宰の前の帥(伊周)・出雲の権の守(隆家)を恩赦の対象とするか否か。また2人を召喚する(都に呼び戻す)か、流刑地に留め置くか」。
問題は、伊周を指す「大宰の前の帥」です。もしこの文面が道長の発した言葉そのものだとすれば、伊周の職はこの時、左遷による「大宰の権の帥」ではなく「前の帥」であり、赦免は既に決まっていることになります。これでは公卿への諮問など有名無実とならないでしょうか。
いいえ、おそらく公卿たちにも根回しが行われていたのでしょう。実資は、この伊周の職名に異を唱える者がいたと記してはいません。結局、赦免については公卿たち全員が「2人を赦す」との意見でした。
一方、2人を召還するか、流刑地に留め置くかについては、意見が分かれました。陣の定めでは、位の低いものから順に意見を述べます。位の高い者が先に意見を言ってしまえば自由な議論がしにくいからです。
結果、4名が「天皇に一任」、3名が「明法家(法律専門官)に尋ねる」、2名が「先例を探す」。わずか1名(ドラマでは藤原公任でしたが、実際は道長の妻・源倫子のきょうだいの源扶義)が「流刑地に留め置く」と言った以外、ほとんどの公卿は明快な態度を示しませんでした。
実資は内心「法律に照らせば明らかなこと」と思っていたのですが、彼も敢えて口にしませんでした。公卿たちの胸には、天皇への忖度や自らの保身など、さまざまの思いが渦巻いていたのでしょう。
道長はといえば、その場では意見を述べませんでした。彼は陣の定めで公卿たちと議論することにこだわって、殊更に関白ではなく内覧・左大臣の職を選んだと考えられていますが、この行動はその志に外れています。
そのうえ、彼は皆の意見を文章化する慣例にも従わず、心に留めるだけで天皇のもとに向かいました。長徳の政変の幕引きは天皇に任せるしかない――実際、道長はそう考えていたのかもしれません。
1年前、長徳の政変を検非違使が出動するほどの大事件とし、2人を厳罰に処したのは、一条天皇の強い意志だったからです。
道長から公卿会議の様子を聞き、天皇が時間をかけて下した結論は「2人を赦免する。また、都に召還する。これは先例による」。即座に独断で裁定を下すのではなく、先例を拠りどころとしたところ、やはり一条天皇は身びいきなだけの天皇にはなりたくなかったのでしょう。
しかし定子については、天皇はどうしても私情を抑えることができませんでした。天皇は6月22日、定子の身柄を京中の一般住宅から「職の御曹司」に移しました。職の御曹司は中宮職の庁舎で大内裏(官庁街、今の霞が関に当たる)の一画にあり、天皇の住む内裏とは、築地塀と通り一本を隔てた隣同士でした。(下画像)
公卿たちは、定子の引っ越しを天皇との復縁の準備と見て反発しました。実資も日記に「天下甘心せず」、誰も定子を許さないと記しています。
理由は定子の出家でした。皇室は国家神道を担っています。神道にとって仏教は異教で、尼はその専門家として忌まれています。尼になってしまった定子は、中宮が行うべき国家のための神事ができず、その意味では“問題のある中宮”なのです。
中宮職の職員たちは「じつは中宮様は出家なさっていない」と口にして、定子をかばいました。実際、定子はただ衝動的に髪を切っただけで、出家に必要な受戒の儀式も済ませておらず、正式な尼ではなかったと思われます。
が、実資の反応は「あり得ないことよ」。やはり、定子は出家したと見なし、中宮復帰に厳しく異を唱えたのです。
このときから、定子は后としての第2の人生を歩み始めることになりました。中関白家全盛期の華やかだった定子とは裏腹に、後ろ盾は弱く、貴族社会からは批判され、ただ一条天皇の愛一つにすがる存在となったのです。清少納言たち女房は、全力で定子を守っていきます。
一方、道長はこれを中関白家再興の予兆と感じたのでしょう。対抗措置として、大納言の藤原公季を内大臣に引き上げる人事を行いました。伊周が政界に復帰しても、以前と同じ内大臣のポストに就けないようにとの策です。
天皇の定子に対するあまりに激しい愛情は、政界をも巻き込み、貴族社会にとまどいと緊張をもたらしたのです。
古記録書き下し文出典:『小右記』(東京大学史料編纂所 大日本古記録)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。