ああ、忍び寄る戦争の影……。どうも、朝ドラ見るるです。

移籍騒動も解決し、梅丸に残ることにしたスズ子。羽鳥&藤村コンビの作った「センチメンタル・ダイナ」を高らかに歌い上げたステージ、すてきでしたね……!

恋に悩み、涙を流しながらも一生懸命前を向くスズ子を応援するような歌詞と、静かな雰囲気の曲冒頭から、後半にかけてどんどん盛り上がっていく感じが最高だった! さすが、天才作曲家と天才作詞家のなせる技!

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「センチメンタル・ダイナ」フルバージョン「ブギウギ」公式動画はこちら

しかし……それから少し時間が経ち、時は1939(昭和14)年。ついに第二次世界大戦がはじまってしまったのです。梅丸楽劇団はステージの演出や内容に大きく影響を受け、お母ちゃんの病状も芳しくない中、六郎にも赤紙が。スズ子を取り巻く状況が、どんどん戦争に絡め取られていきます。(22日水曜現在!)

でも待って。お母ちゃんの病気や六郎の出征って、どこまで史実通りなんだろう? この当時って、戦争の状況的にはどんな時代だったの? 羽鳥さんがチラっと言っていた「メッテル先生」っていったい誰? そんなふうに思った、そこのあなた!(ビシッ)
悲しいドラマの展開に負けず! ブギウギ豆知識、今週もはじめていきましょう!


▼羽鳥先生に音楽の楽しさを教えた──“メッテル先生”って何者なの?

羽鳥「僕はメッテル先生のおかげで音楽の楽しさを知ったんですよ? 遠くウクライナのキエフなんてところから大阪くんだりまで音楽の楽しさを教えに来てくれたんです。それを何だ! ちょっと『ニッポンジンおバカさんね』って言っただけで国外退去って」

そう怒る羽鳥さんが持っていた、外国の男性の横顔の写真……。彼の名前は、エマニュエル・メッテル(1878-1941)。みなさん、彼のことご存知ですか? 実は彼、NHKにも縁深い、実在する人物なんです!

「日本音楽界の恩人」といわれる音楽家・メッテル

メッテル氏は、ウクライナ出身の指揮者。1910年代に日本へ亡命してきた、音楽の巨匠です。メッテル氏がふるさとであるウクライナから逃げ、日本の、それも関西へ流れてきたのには、第一次世界大戦中に起きたロシア革命が大きく関わっています。

そもそも、ロシア革命とは何だったのか!(デデン)
ロシア革命は、1905年に起きた“第一革命”、1917年に起きた“三月革命”“十一月革命”(←当時ロシアで使われていたユリウス歴から、“二月革命”“十月革命”とも言う)から成る連続的な革命のこと。

この革命では、ロシア帝国が崩壊し、世界初の社会主義政権が樹立=ソビエト連合が発足したことで有名なんだけど、当時の内戦っていうのはすごいものだったらしく……。多くの知識人や技術者、貴族、皇帝政治を支持する市民、さらに、ソビエト政府からの弾圧が激しかったウクライナ人やポーランド人、ユダヤ教徒が国外へ亡命したのです。

もともと、ペテルブルク帝室歌劇場のコーラス指揮者や、音楽院教授をしていたメッテル氏も、奥様とともに革命ロシアを去り、ハルビンへ、そして日本へと逃げてきたのでした(←ちなみにこちらの奥様、宝塚音楽歌劇学校で振り付けやバレエなどを教えていた元バレリーナだったとか!)。港を持つ神戸にはこのような亡命者が多くいて、メッテル氏もそのひとりだったんですね。

日本に来たメッテル氏は、新交響楽団というオーケストラで指揮をするなど、日本の音楽界にモダンな西欧の風を吹かせます。そしてこの、新交響楽団というのが、現在のNHK交響楽団なんですよ!
メッテル先生、なんとN響にいた人だったのか〜……!! なんか、謎に親近感覚えちゃいますね(←?)。

そして、オーケストラやラジオ放送の仕事をするかたわら、何人かの日本人青年を個人指導していたメッテル氏が目をとめたのが、大阪時代の若き服部良一さんだったのです。

メッテル氏は服部さんに世界レベルの音楽理論や西洋の文化を教え、服部さんはメッテル氏に日本語を教えたと言います。もっとも、大阪出身の服部さんに教えられたおかげで、メッテル氏の日本語は大阪弁になってしまったらしいですけど……(笑)。なんかほっこりするエピソードですよね。音楽教室が終了し、1933年に服部さんが上京しても、師弟関係は続いていたのだそうです。

そんなメッテル氏が日本を離れることになったのは、1939年のこと。ちょうど、ドラマと同じ時期でした。

この頃、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結び、戦況はどんどん悪化。ユダヤ系のウクライナ人でもあったメッテル氏にとって、日本はどんどん暮らしづらい環境になっていったのでしょう。ラジオ放送局での仕事中の言動によって「不良外国人」の烙印を押されてしまった彼は、アメリカへ再亡命することになってしまったのです。(「上海ブギウギ1945 服部良一の冒険」より)

本人のせいじゃないのに、大切な恩師が戦争と自分の国のせいで大変な目に遭っているって知ったら……そりゃあ、いつもニコニコの羽鳥さんも怒るよね。
メッテル先生や亡命ウクラニアンについて詳しく知りたい方は、こちらの連載もチェック!↓
巨匠・メッテルとは 「ブギウギ」羽鳥善一のモデル・服部良一を育てたウクライナ亡命音楽家の人生をたどる | ステラnet (steranet.jp)


▼いかないで、六郎、お母ちゃん……!! モデル・笠置一家の悲しすぎる史実

さて、そんな戦況の中、花田家にもついに悲劇が訪れてしまいます。先週“甲種合格”を果たした六郎のところに、ついに赤紙が届いてしまったのです。
黒崎煌代くんの演技、本当にやるせなくて……! 戦地に行くことが決まったのに無邪気に喜んでるように振る舞う六郎。お父ちゃんが怒鳴ってしまった気持ちもよくわかるよ……。大切に、ずっと成長を見守ってきた子どもの命がお国のために奪われようとしているってことだけでも苦しいのにね。

その上、お母ちゃんの病気も「助からない」なんて……。お父ちゃん、確かにしっかりはしてないかもしれないけど、家族のこと大好きなんですよね。それをいっぺんに半分失いかけているという現実。キツすぎる……。

笠置さんの自伝を確認してみても、笠置シヅ子さんの弟さんは出征しているし、その頃のお母さんは病気もあまり良い状況ではなかったようです。

実は笠置さんがまだ大阪の少女歌劇にいる頃、笠置家は先にお風呂屋さんを畳んでいました。代わりに、笠置さんのお父さんが、笠置さんの弟・八郎さんとはじめたのは、なんと散髪屋。しかし1938年の1月、八郎さんに徴兵令が届いてしまったのです。

八郎さんの出征にガクッと気落ちしてしまった笠置さんのご両親は、せっかく始めた散髪屋をたたむことに。そんなさなか、笠置さんに東京へのスカウトが来た……という流れみたいですね。東京へ行けば今よりたくさんお金を稼ぐことができる。そんな理由もあって、笠置さんは両親を残して大阪を発ちました。……これ知ってると、移籍騒動の時、笠置さんがお給料の高い東宝に移ろうという気持ちになったのも、なんかわかる気がしますよ。

しかしそれから1年後。笠置さんのもとに、恐れていた「ハハ キトク」の電報が届いてしまったのでした。母・うめさんは、胃がんと、心臓を患っていたのだそうです。

劇団のスタッフたちは笠置さんを大阪へ帰すために奔走しましたが、あいにく笠置さんは、本来の自分の役に加えて、体調を崩して入院していた別の劇団員の役まで代わりに引き受けて歌を歌うことになっていたため、代役は立たず。
「母は、死に目に会いに行くよりも舞台を守った方が喜んでくれるはず」──笠置さんは、そう自分に言い聞かせてステージに立ち続け、とうとう、その間にうめさんは亡くなってしまったのです。(「笠置シヅ子 その言葉と人生」より)

……え!? ちょっと待って、笠置さん、お母さんの死に目に会えなかったの……!? うそうそ、スズ子もステージに立ち続けたみたいだけど……お、お母ちゃん、このまま死んでしまうの!? お願い、せめてスズ子がくるまで待ってて!! アホのおっちゃんの桃もまだ届いてないし……!!
悲しすぎる史実。でも、せめてドラマの中だけは、母子の再会が果たされますように……!


▼今週の見るるPick up!【羽鳥善一&妻・麻里さんのなれそめがおもしろ可愛い件】

……いや今週、悲しい話が多すぎ!?
というわけで、ここでちょっと和む話を挟みましょう(←そうじゃなきゃ、心がもたないよ……!)。
今週見るるが気になったのは、市川美和子さん演じる羽鳥さんの妻、麻里さんが語ってくれた、羽鳥夫婦のなれそめについてのお話。喫茶店で働いていた麻里さんに、お客として来店していた羽鳥さんがとつぜん告白をしたところからふたりの交際が始まった、というエピソードなんですが。

羽鳥「ナイスコーヒー」
麻里「ナイス? あはは、うちのコーヒーはいつでもナイスですわ」
羽鳥「あの〜、突然ですが、僕とおつきあいしていただけませんか? 決めてたんです。30日間毎日アイスコーヒー頼んで、31日目にナイスコーヒーって冗談を言ってみる。その時あなたが笑ってくれたら、僕はあなたに告白するって」

羽鳥先生、ギャグセン高すぎません?? こんな告白されたら、別に相手のこと知らなくても、ちょっと気になり始めちゃいそう(←ほんとか!?)。
麻里さんはそんな羽鳥さんを面白がって告白を受け入れ、その1週間後にされたプロポーズも、びっくりしつつ承諾したんだそう。大物夫婦ですよね。

……でも待って。このエピソードも、羽鳥さんのモデル・服部良一さんの史実通りだったりするの!? き、気になりすぎる……!

というわけで調べてみました!
服部良一さんが、奥様の万里子さんとご結婚されたのは、28歳の時。出会いは浅草の待合茶屋で、服部さんの一目惚れだったそうです。ファーストコンタクトは一瞬だったし、その時は言葉も交わさなかったのですが、……しばらくすると万里子さんの実家に、服部さんからお見合いの申し込みのお手紙が届きました。その文面が、コチラ。
「一生苦労はかけないから、ぜひ(お嫁に)来てくれ」

……強い。「一生苦労はかけない」なんて強気な言葉、そう気軽に言えるもんじゃないよ!?
万里子さんのお母様はそれを読んで、年齢差などの理由から、一度それを断ったのだそう。しかし服部さんから追って届いた手紙には、「僕をのがすと、後悔しますよ」なんて言葉が……(←服部先生、まさかの俺様系?笑)。

しかし、口は強気でも根は優しいとわかったこと、そして作曲家という職業の面白さから、万里子さんは服部さんとの結婚に不安を抱いてはいなかったのだそうです。最終的には服部さんのプロポーズは認められ、ふたりは結婚することになったのでした。(「上海ブギウギ1945 服部良一の冒険」より)

「ナイスコーヒー」のくだりはありませんでしたが、ドラマの中の羽鳥夫婦と同じように、実際の服部夫婦もかなりの大物!(笑)
ちなみにご夫婦の結婚式には、服部良一さんの響友会の仲間を中心に、たくさんの音楽家が集まって、音楽によって式が進行していく超・盛大な式になったのだそうですよ。め、めちゃめちゃすてき〜!


さて、今週の豆知識も、お役に立ちましたか?
……なんて、冷静な感じでいるけど、心の中はドッキドキ。とにかく今日は、スズ子が早く大阪に帰れるように祈るしかないよね。うう、明日の放送、見るのが怖い……。というわけで、今回はここまで。 それじゃあね〜!

"朝ドラ"を見るのが日課の覆面ライター、朝ドラ見る子の妹にして、ただいまライター修行中! 20代、いわゆるZ世代。若干(かなり!)オタク気質なところあり。
両親(60&70代・シニア夫婦)と姉(30代・本職ライター)と一緒に、朝ドラを見た感想を話し合うのが好き。