まずは、上記の写真をご覧ください。
いま放送中のNHKの朝ドラ、「ブギウギ」の一場面です。
右は、「東京ブギウギ」を世に送り出した作曲家・羽鳥善一(モデルは服部良一)。そして左は、ヒロインの福来スズ子(モデルは笠置シヅ子)。

このドラマのヒロインは、昭和ブギウギで一世を風靡した天才歌手・笠置シヅ子をモデルとしていますが、笠置の才能をみぬき、大スターに育てた作曲家こそ、日本ポップス界の生みの親・服部良一でした。

服部良一 日本ポップス界の偉大なる創造者。数奇な縁でウクライナとむすばれた。

この連載コラムは、ウクライナをめぐる歴史や文化をテーマにしていますが「ブギウギ」とウクライナにいったい何の関係があるのでしょうか?
その問いをときあかす前に、服部良一という不世出の音楽人について、もう少々ふれておきたいと思います。


■「越境する音楽人」服部良一

服部良一。いうまでもなく日本ポップス界の生みの親、国民栄誉賞も受けた巨人です。しかし、日本での活躍は、服部の偉業の半分でしかありません。

戦前から戦後にかけ、国際都市・上海、そして香港を舞台に、服部がジャンルを超えてなしとげた音楽の革新は、アジアの大衆音楽にいまも絶大な影響をあたえています。服部は、国境を超える音楽人の先駆者であったのです。

国境を超えるばかりではありません。服部は、音楽のジャンルもやすやすと「越境」してしまいます。
歌謡曲、アジアン・ポップス、シンフォニック・ジャズ、香港映画音楽、交響曲、カンタータ。ジャズやクラシックの音楽語法をわがものとし、日本とアジアの大衆音楽におどろくべき革命をおこしたのです。
服部の全貌はスケールが大きすぎるせいで、いまだ十分には解読されていません。

戦前の上海 服部の才能はアジアを越境、シンフォニック・ジャズで観客を圧倒した。

それにしても服部はなぜそこまで活躍できたのでしょうか。その原動力はどこからきたのでしょう?そもそも服部良一を音楽家として育てたのは、誰だったのか。

もはや忘れられているかもしれません。
実は服部の才能を見出し、高度な音楽話法をたたきこみ、音楽人として開花させたのは、だれあろう、ウクライナの亡命音楽人エマニュエル・メッテルでした。
服部の広大な音楽的素養は、巨匠メッテルの個人教授によって育まれたのです。

服部はこんなことばを残しています。

「メッテル先生に、和声学をはじめ指揮法、管弦楽法を徹底的にたたき込まれたことが、その後の僕にどんなに役立ったかはかり知れない」
「今日ではメッテル先生の孫弟子やひ孫弟子が、全国にどれだけ散らばっていることだろうか」
(服部良一「私の履歴書」より)

ロシア革命と内乱をのがれて神戸に亡命したメッテルは、服部だけではなく、多くの有能な人材を日本の音楽界に送り出しました。
たとえば、戦後日本を代表する大指揮者として、国際的に活躍したマエストロ・朝比奈隆も、メッテルの愛弟子でした。
スケールの大きい朝比奈の音楽は、メッテルの薫陶を受けて、開花したのです。

国際的に活躍した大指揮者・朝比奈隆 ©飯島隆

朝比奈は、メッテルの愛弟子として、きびしい修業に耐え、のち大陸へ渡って、メッテルが育てたハルビン交響楽団や、ヨーロッパの一流演奏家がひしめく上海交響団を指揮します。文字通り、メッテルの後継者としてキャリアを重ねたのです。
若き日、アジア最高の国際的オーケストラを指揮できたのは、メッテルの薫陶の賜物です。
ベルリンフィルへの客演はじめ、世界をまたにかけた朝比奈の快進撃は、メッテルとの出会いがなければありえなかったでしょう。朝比奈はこう回想しています。

「上海にもハルビンにも、楽員にメッテル先生の学友がいるんですよ。お前メッテルの弟子か、ということで、これも得したね」
「(日本は)占領軍、白い目でみられてもしょうがないのに。師の恩というのは果てしないものでね」
「これが僕が(戦後)ヨーロッパに出ていこうとおもいたつ背景にあった」

(「朝比奈隆のすべて」より)

日本の音楽界はクラシックの世界も、ポップスの世界も、ウクライナからやってきた亡命音楽家にはかりしれない恩恵をこうむっています。

今回から3回にわたり、日本音楽界の恩人であるウクライナ人音楽家 エマニュエル・メッテルの足跡、そして、愛弟子であった服部良一、朝比奈隆の音楽人生をたどります。

偉大なウクライナ人指揮者メッテルはなぜ日本に亡命したのか。
朝比奈と服部にどんな影響を与えたのか。なぜ献身的に日本の音楽人を育てたのか。そして、なぜ突然、日本を去ったのか。
メッテルの人生を知ることで、わたしたちは、ウクライナと日本をめぐる新しいヴィジョンを得ることができるでしょう。

日本へ亡命したウクライナ人指揮者エマニュエル・メッテル 1878年生まれ

■巨匠はなぜ日本へやってきたのか 

まずは、ウクライナ人指揮者メッテルの足取りを追ってみましょう。時計の針を1878年へともどします。
この年、メッテルはウクライナのへルソンで生をけました。当時のヘルソンは帝政ロシアに支配されていました。

ユダヤ系ウクライナ人の裕福な家庭に育ったメッテルは、はじめ弁護士をこころざし、ハルキウ大学の法科へ進学します。ハルキウ大学はウクライナの知識人が創設した名門。
悲しいことに去年、歴史の刻まれた建物の大半は、ロシアの砲撃によって根こそぎ破壊されてしまいました。

ハルキウ大学 2022年ロシアのミサイル攻撃で完膚なきまでに破壊された。
(Main Directorate of the State Emergency Service of Ukraine in Kharkiv Oblast)

メッテルはハルキウ大学の法科を卒業しましたが、しかし、音楽への情熱が嵩じて、思い切った転身をこころみ、サンクト・ペテルブルク音楽院の聴講生になりました。
天才たちの競い合う帝政ロシア有数の音楽学校。メッテルは大作曲家グラズノフ、オーケストレーションの大家リムスキー・コルサコフの指導を受けました。

才能をみとめられ、指揮者として脚光を浴びたメッテルは、ロシア帝室音楽院教授、モスクワ国立歌劇場指揮者など、帝政ロシアの音楽界で要職を歴任します。

カザンでオペラの指揮を任されていたとき、プリマ・バレリーナのエレナ・オソフスカヤと結婚します。のちほどふれますが、このオソフスカヤこそ、のち草創期の宝塚歌劇にまねかれて振付、バレエ、舞台演出の基礎をきずいた大功労者です。

将来を嘱望されていたメッテルとオソフスカヤ。しかし、そのしあわせは長くは続きませんでした。
1917年、レーニン率いるボリシェビキ(ロシア共産党)が政権をにぎり、帝政ロシアは崩壊。革命と内乱、血なまぐさい暴力の嵐が吹き荒れます。
音楽家のパトロンであった貴族は財産を奪われ、「人民の敵」とよばれて収容所に送られ、片端から虐殺されました。

レーニンとスターリン 独立国家ウクライナを蹂躙したロシアの共産主義者

この混乱期、帝政ロシアの圧政に苦しんできたウクライナ人は、独立を宣言。
1918年、「ウクライナ国民共和国」を樹立しました。
しかし、赤軍に侵略され、ウクライナはわずか2年足らずで、独立を失います。

その後ウクライナは長きにわたり、いわば「国内植民地」としてモスクワに支配されることになりました。
いまに至るウクライナの悲劇は、このときにはじまったのです。

身の危険を感じた多くのウクライナ人は、祖国を離れ、世界に離散します。
革命政権の弾圧を怖れる音楽家も、積み重ねてきたキャリアに見切りをつけ、われさきに亡命をこころみました。指揮者メッテルもそのひとりでした。

亡命者は、どんなルートでロシアを逃れたのでしょうか。巨視的にみれば、おもなルートは東西二手にわかれます。西へ向かい、欧米へ離散したひとたちがいます。
一方、いまだ革命勢力の支配のおよばない極東へ向かったひとたちもいました。

極東アジアとヨーロッパをつなぐシベリア鉄道

メッテルはユーラシア大陸を横断、極東へ向かうルートを選びます。ただし、それがいつのことであったか、資料もとぼしく、よくわかっていません。
たしかなのは、革命と内戦への恐怖が亡命者の大群を生み出したこと、そしてその奔流にまぎれて逃亡したメッテルが、まずハルビンをめざしたという事実です。


亡命者の首都、ハルビン 

19世紀以降、東へ、東へと膨張する帝政ロシアは、野心的な東進政策をすすめました。その先兵となったのは、膨大なウクライナ農民でした。

19世紀末、極東やサハリンへ100万人のウクライナ農民が移住しました。ロシア革命の直前には、極東ロシアの人口の8割をウクライナ人が占めています。

いまも極東で暮らすウクライナ人の多くはその末裔といわれています。
ちなみに、昭和の大横綱・大鵬の父は、サハリンへ移住したウクライナ人でした。

不世出の大横綱・大鵬幸喜 父はウクライナ人であった。

大鵬の父・マルキャン・ボリシコは1900年、オデーサから出航し、サハリンへ向かいました。数奇な縁でオデーサには、ウクライナの英雄・大鵬の銅像が建てられています。大鵬は2011年、ウクライナから友好勲章を受章しています。

帝政ロシアによる極東開発の主役はいうまでもなく「シベリア鉄道」。ヨーロッパとアジアをつなぐユーラシア最長の鉄道です。そして、ロシアが極東進出の拠点としたのは、シベリア鉄道の乗換駅ハルビンでした。ハルビンは中華民国の都市でありながら、帝政ロシアの影響力の下におかれたのです。

ハルビンには、ヨーロッパの都市とみまがうような街並みがつくられた。

ロシア革命前後。まだ極東ロシアには革命勢力がおよんでいませんでした。その結果、共産主義者を怖れる難民や亡命者が大量にハルビンに流れ込みます。

一攫千金を企てる亡命者もいれば、底辺の暮らしを強いられる難民もいます。独立を夢見るウクライナの民族主義者もいます。ウクライナ人ばかりでなく、ポーランド人、ユダヤ人のコミュニティも生まれ、ハルビンの繁栄を担っていました。

今ではその華やかさが忘れられていますが、ハルビンは「東洋のパリ」とよばれ、ユーラシアにひろがる闇のなかで、花火のように輝いた国際都市であったのです。

ハルビンの輝きにひかれ、才能ゆたかな音楽家も逃げ込んできます。            ハルビンには帝政ロシア時代に創設された交響楽団があり、腕におぼえのある亡命音楽家の生きていく余地が残されていました。

ユーラシア大陸を横断して、ようやくハルビンに腰を落ち着けたメッテルは、ハルビン交響楽団の指揮者に就任します。
メッテルは、亡命音楽家のよせあつめ楽団を手塩にかけて育てあげ、みるみるうちに「東洋一」の水準にみちびきます。その手腕は高く評価され、メッテルの名はヨーロッパでも、そして日本でも、大きく注目されるようになりました。


■「ハルビン・インパクト」がN響を生んだ

メッテルが育てたハルビン交響楽団に、熱いまなざしをそそぐ日本の音楽人がいました。欧米で音楽を学んだ作曲家・山田耕筰です。
まだ、まともなオーケストラを一つも持たない日本の音楽人にとって、アジアに輝く一流オーケストラの快進撃は、ひときわまぶしく映っていたのです。

山田耕筰は、ハルビンの音楽家を日本にまねくために奔走しました。
その努力が実って、ハルビンのオーケストラはたびたび来日するようになり、草創期の日本のクラシック音楽界に、はかりしれないインパクトをあたえました。

日露交歓交響管弦楽演奏会 ハルビン交響楽団から30人の演奏家がまねかれた
(1925年4月 東京・歌舞伎座)

その第一弾は、メッテル時代のハルビンの名手、シフェルブラッドやケーニヒらが来日した1925年の「日露交歓交響楽演奏会」。東京・歌舞伎座で四夜連続で開かれた演奏会は、音楽史に残る事件といえるほど、観客を熱狂させました。
これこそ日本人が初めて聴いた本格的なオーケストラの演奏であったのです。

ハルビン響来日の衝撃は、日本で本格的なオーケストラが誕生する出発点となり、山田耕筰の肝いりで、「新交響楽団」が誕生します。のちのNHK交響楽団の前身です。メッテル時代のハルビン響に在籍したケーニヒが東京にまねかれ、新交響楽団の指揮者として、日本人の演奏家を指導しました。

こうしてみていきますと、日本のクラシック音楽受容の歴史に、ハルビンという、「亡命者の都」のはたした役割の大きさに驚かないわけにはいきません。
そして、そのハルビンで東洋一のオーケストラを育てたのは、ほかならぬメッテルであったのです。


■ハルビン危うし 

音楽都市ハルビンのオーケストラはメッテルの指揮を得て、黄金時代をむかえました。ところが、ハルビンにも、しだいに革命ロシアの勢力が浸透してきます。

1921年、ソ連はロシア内戦に勝利、翌年、ソビエト連邦が成立、ソ連は時をおかず、極東ロシアの支配を強化します。
ハルビンに逃げてきた亡命者のほとんどが無国籍になりました。もしソビエトの国籍を申請すればロシアに強制送還され、待ち構えているのは地獄の強制収容所でしょう。亡命者の楽園ハルビンにも、終わりのときが近づきました。

白系ロシア人の音楽家らはソ連の影響力が強まると、しだいに居場所を失い、ふたたびディアスポラ(民族離散)を強いられることになる。
しかし、行く先はどこへ? まだ逃げ道は残されているのでしょうか。上海でしょうか?アメリカ? それとも…。

(第二回「KOBEの奇跡」に続く)  

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。