どうも! 朝ドラ見るるです。

文通って、いいよね。なんかちょっと恥ずかしいくらいまっすぐに本音が言えちゃうし、文字を書くのも、読むのも、メールやラインより時間がかかるからこそ、相手のことを思う気持ちが膨らんでゆく……スズ子と愛助さんのお手紙のやり取り、見るる的にはちょっとうらやましかったよ〜。

恋愛っていうのは、付き合う直前と付き合った直後がいっちばん楽しいからね。いやほんと、両思いおめでとう!! 

……というわけで、愛助さんと正式にお付き合いすることに決めたスズ子。戦況は悪化し、地方巡業中にも警察の指導が入る中、それでもふたりは幸せそうです(20日水曜現在!)。

でも待って。戦況の悪化に伴って行われた「学徒出陣」って、実際どういうものだったの? 羽鳥先生が携わっているという映画音楽って何? 伝蔵さんの屋台だけじゃない、戦時中の食糧事情について詳しく知りたい! そんなふうに思った、そこのあなた!(ビシッ)

今週も元気よくお伝えしていきますよ。「ブギウギ」豆知識、はじめてこ〜!


▼学徒出陣──戦地に駆り出された学生たち

愛助「前にも話しましたけど、ずっと体が弱あて…実は、この体やと、今回の学徒出陣に行くことができるわけがないんです。そやから、生きるんか死ぬんかも分からん戦地に出征していく同級生らに、ごっつい申し訳ない気持ちがあるんです」

愛助さんのこのセリフ。なんとも言えない気持ちになりますね。だって、戦死も覚悟で戦地に行くことがいいことで、それができないと「申し訳ない」だなんて。あんまりだよ……。

1943年、学徒出陣。それは、長引く戦争の中で兵力不足を補うために、これまで徴兵を猶予されていた学生が、在学途中で(!!!)兵隊に動員されたこと。

あのですね、見るる、いろいろ調べているうちに、この記事を読んだのです。
※終戦77年 発見された日記に込められた学徒の思い

出陣した元学徒(戦後も生き残った方)が残した、戦中の日記について書かれているんだけど、これを読むとね、まさに愛助さんが言ってたことがよくわかる。「戦争に参加していないことに対して後ろめたさを感じる」というのは、実際にあったことなんだって。実際の文章に込められた思いや葛藤が、痛いほど伝わってくるよ。

そんな中でのスズ子との恋。いや〜それは迷うよね! 恋愛だって、当事者たちにとっては人生の一大事ですよ? でも、ちょっと比べる対象が大きすぎて、正直、見るるには手に負えん……。

いや、でもでもやっぱりこんな時代だからこそ希望を捨てず、恋をして、日常を楽しんで、精一杯生きていくことも大事。それもわかるんだよ〜!!
難しい!!(思わず大の字)


▼羽鳥先生、いつの間に映画のお仕事を!? 服部良一さんの映画音楽って?

羽鳥先生、久しぶりの登場でしたね。というか、羽鳥一家、みんな元気そうで良かったです! で、最近は映画音楽を作っているとか。麻里さん曰く、「面白くもない映画に音楽なんかつけたくないって文句ばっかり」らしいですけど……。

一体どんな映画なんだろう〜? かえって興味がわいちゃいます。

さて、実際、モデルの服部良一さんも、けっこう、映画音楽のお仕事はしていたようです。はじまりは、昭和13(1938)年2月上映、渡辺邦男監督の東宝映画『鉄腕都市』。服部さんが笠置シヅ子さんと出会ったのが同年4月なので、実はけっこう前から取り組んでいたんですね。

そのあとはしばらく松竹楽劇団の仕事が忙しかったようですが、楽劇団が尻すぼみになったあとは時間に余裕ができたため、東宝でさまざまな映画の音楽を担当することになった様子。喜劇俳優・古川緑波主演の『ロッパ歌の都へ行く』、原節子主演の『東京の女性』など。

しかーし!『東京の女性』の挿入歌として淡谷のり子さんが歌った曲、『夜のプラットホーム』は、レコードが発禁処分になってしまったようです。出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるからだとかで……うむむ、残念。

ほかにもいくつも映画音楽のお仕事をしていて、昭和18(1943)年には、市川猿之助、原節子、高峰秀子主演の『阿片戦争』の主題歌『風は海から』の作曲を担当。作詞は有名な詩人・西條八十さんだったそうですよ。ほんと、ものすごい豪華なメンバーですよね!(見るるでも知ってる名前のオンパレードだもん!)


▼今週の見るるPick up!【戦争中の食糧事情】

今週は、ショッキングな別れもありました。

伝蔵「今日で店じまいだ。もう限界だ。材料もろくに手に入んねえし、まともな商売なんかできやしねえ」

お、おっちゃん……!!!(泣)悪態をつきながらもスズ子たちを見守り、温かいおでんを食べさせてくれていた伝蔵さんの屋台が、ついに店じまい……。うう、悲しい。悲しすぎるよ。

思い返せば、東京に来てからのスズ子のそばには、いつも伝蔵さんの屋台があったよね。大阪に帰る秋山とコロを食べたり、ケンカしたお父ちゃんと仲直りしたり、思い出もいっぱい。関東と関西のおでんの味付けの違いに驚いていたあの頃が懐かしい……と思っていたら。

みなさん、気付いてましたか? 最近の伝蔵さんの屋台で提供されてる大根の色、スズ子が上京したてのころより、ずっと薄くなってるんです。

昭和18年にもなると、具材やお酒だけでなく、ダシの材料も手に入らなくなっていたのかも? ああ、懐かしの「黒いおでん」。

日本でまず配給制になった食べ物は、砂糖だったそうです。昭和15(1940)年のことでした。どのくらいの量もらえるかというと、その当時で15人家族までは、毎月1人あたり0.6斤(360g)。毎月きちんともらえる計算で、1年あたり約4kg程度の量。

意外とあるね、なーんて、数字おんちの見るるは思ったんですが、配給制がはじまる前まで、当時の日本人ひとりの砂糖の消費量は、年間で16kg程度だとか。量にして、4分の1……。いや、これ、味、しないんじゃない?

その後、米やみそ、醤油、パン、小麦粉、食用油などが次々配給制になっていき、食生活はどんどん貧しくなっていきます。

スズ子たちの巡業先のごはんがお芋ばっかりなのも、この辺りが原因ですよね。お芋は炭水化物だから、とにかく餓死だけは防げる……みたいな感じだったそうです。

さらに見るるが今週気になったのは、下宿でのこちらのシーン。

小夜「わ〜、卵入ってる!」
チズ「特別にヤミで買ってきたのよ。たまにはいいもん食べたいでしょ?」

「ヤミ」ってどういうこと?って思って調べました。
昭和17(1942)年、食糧不足に対処するために食糧管理制度が始まったんです。国が食糧の管理をして、需要と価格の調整や、流通の規制を行う制度です。この制度下では、配給以外のものを入手することは違法ではありましたが、配給だけでは生きていけず。普通の価格の何倍もの価値で食べ物が売買される「ヤミ」の取引で食べ物を確保したそうです。

苦しい中でも、みんな一生懸命したたかに生きていたんだな〜。今は今で、物価が高くて苦しいけど(泣)、とりあえず、好きに買うことはできるもんね。せめて、食べ物は残さないで食べよう、なんて思った見るるなのでした。


さて、今週の豆知識、お役に立ちましたか? でも、内容が戦争ネタばっかりになるのが、つらいよ〜。というわけで、今回はここまで。また来週!

"朝ドラ"を見るのが日課の覆面ライター、朝ドラ見る子の妹にして、ただいまライター修行中! 20代、いわゆるZ世代。若干(かなり!)オタク気質なところあり。
両親(60&70代・シニア夫婦)と姉(30代・本職ライター)と一緒に、朝ドラを見た感想を話し合うのが好き。