まだらボケして徘徊する姿を哀れな最期とするか、権力者としての大往生と、とらえるか。とうとう藤原兼家が鬼籍に入った。段田安則の冷酷非情の名演が作品の前半を牛耳ってきたわけだが、すべては藤原の「家」のためというマインドは長男・道隆(井浦新)にまんまと継承された。
関白・道隆は17歳の息子・伊周(三浦翔平)を蔵人頭に任命、その後も一気に内大臣へと昇格させる。藤原家の強引かつ身内贔屓の政が続いている4月、今回のお題は「承認欲求」にしぼってみよう。
まず1人目は、問題の多いあの次兄・道兼である。父親譲りの冷酷無比、民や下級貴族を虫けら扱いして、ふるまいは粗暴につき、人望もなし。演じるのは「承認欲求モンスターを演じたら無双」の玉置玲央だ。のっけからちょいと脱線して、玉置が熱演した傑作に触れておきたい。
理解も共感も同情もされない「孤独」
柔和とはいいがたい顔立ち、人の気持ちを逆なでする発言や傲慢な態度、とにもかくにも好印象とは真逆の役柄の印象が強い玉置。ただし、その根底には理解されない悲しみや認めてもらえない苦しみがこんこんと湧き出る。「僕を認めて!」という悲痛の叫びが聞こえてくるような、そんな行間を魅せてくれる役者だ。
故・大杉漣が初プロデュース&主演した映画『教誨師』(2018年)では、十数名を殺害した死刑囚・高宮真司を演じた。
大量殺人をしておきながら反省の色も見せない。大杉が演じる教誨師・佐伯が面会しても、資本主義も共産主義も揶揄したり、優生思想主義を掲げたりで、悔い改めるどころか論破して正当化しようとする。厄介だが、教誨師を原点に立ち戻らせるような死刑囚の役だった。
傲岸不遜な態度に腹立たしさを覚えるものの、なぜか悲しみも伝わってくる。誰からも理解も共感も同情もされず、人との関係をうまく築けなかった不憫な人間と感じさせた。
また、2021年のドラマ「ひきこもり先生」(総合テレビ)の名演も忘れ難い。佐藤二朗演じる元ひきこもりの居酒屋店主・上嶋陽平が、中学校の臨時講師となってさまざまな問題を抱えた中学生の心に寄り添っていく。
玉置が演じたのは、上嶋のひきこもり仲間であるヨーダ君こと依田浩二。16歳から38歳までと、筋金入りのこもりびとだ。上嶋が講師として活躍し始めると急に対抗心を燃やしたり、世間馴れしていないせいで小さなときめきで舞い上がったり、幼さを残した中年男性を見事に演じきった。
ひきこもりの背景には父親の存在があり、満たされぬ承認欲求が暴走した一面もある。自分に対して暴言を吐いた父親を憎しみ恨んでいるのだが、その深層心理には、父に「愛されて認められたかった」思いがある。
あれ、これって……そう、道兼なのよ。ヨーダ君の悲しみが道兼の悲しみと重なって見える。父親に愛されたくても愛されなかった息子の意地と悲劇。ヨーダ君は病気も克服、前を向いて歩けるようになったが、道兼はというと……。
汚れ仕事専門、藤原家の鬼っ子・道兼の行く末
優秀な長男を支えるよう、父に命じられてきた道兼。円融天皇(坂東巳之助)に毒を盛り、花山天皇(本郷奏多)を騙して譲位させ、父の指示通りに汚れ仕事をこなしたものの、その悪業は功績としては認められず。
長男一家の祝宴に呼ばれることもない。兼家は「殺めるのは卑しき者のすること」と考え、虫の居所が悪かっただけで殺人を犯した道兼を一家の恥とし、泥をかぶる者として使い倒したわけだ。
道兼は父に認められたくて悪事に手を染めたのに、後継は長男に託して出家するという父。憤慨した道兼は参内しなくなり、父亡き後は喪にも服さず、酒浸りで女遊びにふける。
妻・繁子(山田キヌヲ)にも愛想をつかされ、逆三行半を叩きつけられる。しかも「好いた殿御ができました」と捨てられる。入内させようと目論んでいた娘も、妻と共に去ってしまう。道兼、ポツーン……。
劇中、道兼は人として善きところがひとつもなかったのに、心奪われるのはなぜか。私利私欲で出世したい、優秀な兄に勝ちたい、の自己実現というよりも、承認欲求が強いからだ。
「父上の心を取り戻してみせます」という道兼の必死さも虚しく、最後は人殺し扱いで突き放される絶望。承認欲求は満たされず、家族も失って、希死念慮までちらつかせるほど自暴自棄になる姿は哀れそのもの。
「父上に騙されてずっと己を殺して生きてきた。俺の意志、俺の思い、すべてを封印してきた」と吐き捨てる道兼。悲しき承認欲求モンスターは父に対して愛と憎しみを抱えながらも、ある意味で父に依存していたことに気づかされる場面でもある。主語が自分ではなかった人生を、はたして取り戻せるだろうか。
ところが、第16回(4月21日放送)では、改心の片鱗を見せた。疫病が流行する中、罹患した民が集まる現場へ出向くという道長(柄本佑)に対して「汚れ仕事は俺の役目だ」と制止する道兼。疫病対策を一向に行わない関白・道隆への抵抗ともとれるが、道長を守ろうとする自己犠牲の発言ともとれる。
主語を取り戻して、善行を積めるか、道兼⁉ 歴史的には「七日関白」と呼ばれ、無念の最期を迎えるであろう道兼。この後も玉置がペーソス&エレジーをたっぷり魅せてくれるに違いない。
運と縁と実力で承認欲求を満たしていく女
さて、もうひとり。承認欲求は強いが、道兼と違って主語が自分にある女がいる。ききょう(ファーストサマーウイカ)だ。まひろ(吉高由里子)とともに藤原家が開催する漢詩の会や和歌の会に呼ばれ、その知識や機転を認められ、定子(高畑充希)の女房になりあがった。定子からは清少納言と名付けられる。
一方、まひろといえば、父・為時(岸谷五朗)は相変わらず官職につけず、自分の働き口もない。主人公だが光の当たらない生活をしているまひろとは、あえて対照的に描かれる人物だ。
ききょうは清々しいほどに欲望に忠実である。肥後に赴任した父、清原元輔(大森博史)について行かなかったのは「京にいないと取り残されそうで」。華やかな都会にいることに価値を見出している様子がうかがえる(父の死に立ち会えなかったことを悔やんではいるけれど)。
また、頭の固い夫や息子は自分の人生に不要と断言し、離婚してから参内している。歯に衣着せず、毒とウィットに富んだ物言いでやんごとなき人々の心をわしづかみ、今でいう「陽キャ」でもある。
定子を中心とした華やかな世界で、女房として、女として、そして平安時代の宮中を描いた名エッセイスト・清少納言としてもその名を後世に残していくわけだ。
道長とまひろを純粋な人格者として描くうえで、承認欲求の強い道兼と清少納言は「残酷な対比」として必要なスパイスである。
もうひとり、満たされない女も……
逆に、承認欲求が満たされず、居場所も失いつつある女がひとり。まひろと姉妹のように仲よくなっていた、為時の妾の娘・さわ(野村麻純)である。
実母が他界し、父は今の母と子をもうけ、自分は家の中に居場所がなくなったと嘆くさわは、気晴らしにまひろを石山詣に誘う。そもそも、まひろの弟・惟規(高杉真宙)を狙ってはいたものの箸にも棒にもかからず、殿御との出会いを求めるさわ。婚活中ね。
しかし、石山寺でアクシデントが。偶然来ていた道綱の母・寧子(財前直見)と「蜻蛉日記」の表現で盛り上がるまひろ。さわはその会話についていけない。さらに息子の道綱(上地雄輔)にひとめ惚れするも、まひろと間違えられて夜這いをかけられる。
学のない自分を痛感し、女としての自信もすっかり喪失したさわは、いじけてぶんむくれて、まひろと絶交状態に。酷な展開だが、さもありなんの乙女心には奥歯を噛みしめた。さわ、あんた面倒くさいけど、気持ちはわかるよ!
認められたい、愛されたい、求められたい。素直な欲望は口にしていれば叶うこともあるが、歪んだり、方向を間違えたりすることもある。悪意や刃となって他人を傷つける可能性もある。承認欲求の光と影、今月はその対比をおおいに楽しんだ。
ライター・コラムニスト・イラストレーター
1972年生まれ。千葉県船橋市出身。法政大学法学部政治学科卒業。健康誌や女性誌の編集を経て、2001年よりフリーランスライターに。週刊新潮、東京新聞、プレジデントオンライン、kufuraなどで主にテレビコラムを連載・寄稿。NHKの「ドキュメント72時間」の番組紹介イラストコラム「読む72時間」(旧TwitterのX)や、「聴く72時間」(Spotify)を担当。著書に『くさらないイケメン図鑑』、『産まないことは「逃げ」ですか?』『親の介護をしないとダメですか?』、『ふがいないきょうだいに困ってる』など。テレビは1台、ハードディスク2台(全録)、BSも含めて毎クールのドラマを偏執的に視聴している。