寛弘(かんこう)5年(1008)の12月30日(旧暦)。いろいろあった一年のおおみそであるこの夜、(だい)()の中宮彰子の御殿に盗賊が押し入りました。襲われたのは彰子付き女房2人。命に別状はなかったものの、装束を奪われ、身ぐるみ()がされたのです。

当時の内裏の治安状況がいかに悪かったか――この事件はそれを示すものですが、紫式部の人生においては一つのターニングポイントともなりました。個人の作家として生きるのか、彰子の女房になり切るのか。この事件は紫式部が心に抱いていた迷いを吹き飛ばし、彼女を「今の私」の真実に目覚めさせたのです。

9月に彰子が皇子を出産すると、紫式部は緊張から解き放たれたせいか自分の生き方について思い悩むようになっていました。彰子のもとで居場所は得られたものの、女房の暮らしにいま一つ馴染(なじ)み切れなかったのです。

12月29日夜、紫式部は内裏の(つぼね)(ひと)り、和歌を(つぶや)きました。

年暮れて 我が世()けゆく 風の音に 心の内の すさまじきかな

年の暮れ、夜も私の年もふけてゆく。吹きすさぶ風にさえ場違いと言われているようで、心の中は荒涼とするばかりだ。

(『紫式部日記』寛弘5年12月29日)

このとき周囲では、女房を訪ねる男性の靴音がかしましく聞こえていました。こうした男女関係の華やかな場に老けた自分はそぐわない――紫式部は強い違和感を抱いたのです。

強盗事件は、その翌日の夜のことでした。局で他の女房たちと(くつろ)いでいた紫式部の耳に、叫び声が聞こえました。火事? いいえ、そうでもないようです。

「ともかうも、宮、下におはします。まづ参りて()(たてまつ)らむ」

「何はともあれ、中宮様がお部屋におられる。まず御前に上がってご様子を確認いたしましょう」

(『紫式部日記』寛弘5年12月30日)

紫式部は同室の侍女に声をかけ、横で眠っていた同僚を揺り起こすと、震えながらも3人で彰子の部屋に向かいました。すると途中に同僚の侍女が2人、裸でうずくまっています。盗賊に装束を()られたのです。ますます背筋が凍ります。

あいにく警備係が見当たりません。「(つい)()」(旧暦の大晦日に1年の邪気を払う行事。現在の節分の豆まきに当たる)の終了後、みな引き上げてしまったのです。紫式部は、(つつし)みも忘れて大声をあげました。

殿(てん)(じょう)()(ひょう)()(じょう)という(くろう)()(紫式部の弟・(ふじ)(わらの)惟規(のぶのり)のこと)がいる。早く呼んで、呼んで!」

(せい)(りょう)殿(でん)(天皇の御殿)に控えているはずの惟規のことが頭に浮かんだのです。が、彼はすでに帰宅していました。「つらきこと限りなし(何と(うら)めしい)」。紫式部がいらだっているところへ、別の六位(ろくいの)蔵人が駆けつけ、天皇からの使いも来て事態は収束しました。被害者たちには、彰子から正月用の装束が与えられました。

この事件は、3つの点で紫式部の自覚を促したと思われます。

一つは、中宮の部屋近くで起こった緊急事態に、即座に体が動いたこと。昨晩までは内裏勤めに私は向いていないなどと悩んでいたのに、恐怖を抱きつつ行動に出たのです。紫式部は、自分の中にあった彰子への思いを再認識したことでしょう。

もう一つは、弟が帰宅したと聞いてこみあげた悔しさです。現代なら、毒づいて舌打ちでもするところでしょうか。勤務時間が終われば退出するのは当然なのに、紫式部はそうは思わなかった……。すでに私生活より仕事を優先させる、“モーレツ”キャリアパーソンに(かたむ)いています。

そして最後は、現場に駆けつけた六位蔵人・藤原(すけ)(なり)です。惟規はこのとき30歳前後と推定されますが、資業は21歳。その父・(あり)(くに)は漢学者で、紫式部や父の藤原為時(ためとき)とは同門の仲でした(下図)。漢学には菅原(すがわら)家や(おお)()家という世襲の家もありましたが、2人はともにたたき上げです。

為時が融通の利かない性格で出世とは縁遠かったことに対し、有国は優れた処世術によって参議にまで達しました。この晩、何も知らずのほほんと帰宅していた惟規と、タイミングよく内裏にいて遅くまでかいがいしく働いていた資業。それぞれの父の“人生”をそのまま受け継いでいるかのようです。

ちなみに、資業の母は(たちばなの)徳子という女官で、(いち)(じょう)天皇の乳母を務めた功績により朝廷から(じゅ)(さん)()典侍(ないしのすけ)の地位を与えられた、いわばベテラン“バリキャリ”でした。有国は再婚で、ともに出世の道を目指すパートナーとして徳子と手を結び、資業をもうけたと考えられます。

摂関家ならずとも、中・下級の貴族社会には男女を問わず出世の夢があり、()(れつ)な競争があったのです。紫式部はこの事件で、まざまざとそれを見せつけられたのではないでしょうか。

こうして紫式部は覚悟を決め、キャリアパーソンの道を歩みだします。翌日の寛弘6年元日には、事件のことを「恐ろしい。でもなんだかおかしい」と記し、自分の悩みもろともたくましく乗り超えた横顔さえ見せています。

 

作品本文:『紫式部日記』(角川ソフィア文庫『紫式部日記 現代語訳付き』)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。