寛弘4年(1007)年8月、藤原道長は生涯でたった一度の御嶽詣(修験道の聖地・吉野の金峯山への登頂)に出かけました。金峯山は都から遠く山道は険しいうえ、前もって長期間精進潔斎(肉食を断ち、体を清め、穢れを避けること)し、毎晩五体投地の祈り(両手、両膝、額を地に投げ伏して祈ること)を行うなどの必要がありました。
が、紫式部の亡夫・藤原宣孝がかつて昇進を願って詣でたように(コラム#13参照)、多くの平安人が切実な願いを抱いて御嶽詣を行いました。道長の願いが何だったのか、それに関する史料は残っていませんが、登頂後、最初に参ったのが「小守(子守)三所」(吉野水分神社の別名)であることから、娘の中宮彰子の子宝祈願であったことは確かでしょう。
道長は70日余りの精進潔斎を経て、8月2日丑の刻(午前2時前後)に潔斎所を出発しました。朱雀大路を南下し羅城門から平安京を出て、辰の刻(午前8時前後)に鴨川の川下から舟に乗り、午の刻(正午前後)に石清水八幡宮に参拝。捧げ物をしたのち、さらに舟で木津川を渡るなどの行程を、詳しく日記『御堂関白記』に記しています。
日記によると、道長は石清水八幡宮のほか、奈良の大安寺、飛鳥の軽寺、壺阪寺など往路だけで10か所の寺社に参り、供物を捧げています。うち大安寺では、準備された宿が華美すぎて御嶽詣に相応しくないと、わざわざ宿替えをしています。敬虔に神仏にすがる態度からは、彼が抱く願いの重さが窺われるようです。
道長の御嶽詣 行程メモ
①潔斎所 鴨川から舟に乗る。
②石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)
木津川渡後徒歩か。
宿/「内記堂」場所不明
【8月3日】
③大安寺(奈良市大安寺)
宿/「大安寺南中門東脇宿舎」
【8月4日】
井外堂(場所不明)
宿/「井外堂」
【8月5日】
④軽寺(奈良県橿原市大軽町 ※現存せず)
宿/「軽寺」
【8月6日】
⑤壺坂寺(奈良県高市郡高取町壺阪)
宿/「壺坂寺」
【8月7日】
観覚寺(奈良県高市郡高取町観覚か)
⑥源光寺(=世尊寺 現・吉野町大字吉野山小字子守)
宿/「野極」吉野山山麓通称か
【8月8日】
雨で動かず。
宿/「野極」
【8月9日】
吉野山 寺祇園、宝塔
宿/「寺祇園」登山道中 ※場所不明
【8月10日】
吉野山
宿/吉野蔵王権現僧房「金照房」※場所不明
【8月11日】
⑦小守(子守)三社(吉野水分神社)
⑧吉野蔵王権現 参詣
宿/「寺祇園」
【8月12日】
下山。宝塔、金照房に寄り野極で乗馬。吉野川水辺で京からの迎えと合流。
宿/「広大野」
【8月13日】
国司源頼親が仮小屋数棟を建て接待。馬を下賜。
国司の設置した木津川岸上の仮屋で乗船。
宿/舟上泊
【8月14日】
暁方、淀に到着。牛車で鴨川精進所、解除。土御門殿帰着。内裏・春宮に挨拶。
※丸数字は地図と対応
道長が金峯山に登り始めたのは8月9日、ときどき雨の降るあいにくの天気でした。一方、京にいる藤原実資は、この日の日記に不穏な事柄を書き留めています。
「伊周・隆家、致頼を相語らひて左大臣を殺害せんと欲する間の事」
「藤原伊周と弟の隆家が、平致頼とたばかって左大臣道長を暗殺しようとした経緯」
(『小記目録』諸社 寛弘4年8月9日)
伊周と隆家による、道長暗殺計画――ただ詳細はわかりません。この時期の実資の日記『小右記』は現存せず、日記の内容を事柄別に分類した「小記目録」によって事件の要点が知られるだけです。とはいえ、実資が何らかの情報を入手し、日記に記したことは確かです。
この「小記目録」に名前の見える致頼は、「桓武平氏」の祖・高望王(平高望)の曽孫に当たります(下図)。下級貴族ですが、『今昔物語集』には京の八坂神社をめぐる寺社間の抗争に郎等(武者の家来・従者)を貸し出していたと記されていて、独自の武力集団を従えて戦いを請け負っていたようです。
致頼のように、京にいて武芸という“特殊技能”を家業とした下級貴族を「軍事貴族」と言います。致頼は長徳4年(998)には同族の平維衡(上図右下)と伊勢国で合戦を起こし、両者とも流罪に処されるなど、地方での動きによっても看過できない存在になっていました。
伊周と致頼との関係といえば、長徳2年(996)に伊周と隆家が花山院を襲った暗殺未遂事件(長徳の政変/コラム#19参照)の際、致頼の兄弟の致光が伊周の傭兵隊長として検非違使庁の家宅捜索を受けています。
こうした縁からも、伊周と隆家が参詣道中の道長一行に暗殺者を差し向けようと考えたとき、致頼はうってつけの請負人だったと言えるでしょう。
しかし道長は8月11日に無事に参詣を終え、帰途につきました。『御堂関白記』によれば、12日に下山すると京からの迎えが麓で待ち受けており、そこには源頼光の名が見えます。頼光は「清和源氏」の一族で(先の系図)、室町時代の短編物語集『御伽草子』では、鬼神・酒呑童子を退治したとして伝説化された武者です。
彼も致頼と同じく軍事貴族ですが、道長と近しい関係を築いており、長和5年(1016)に土御門殿が全焼したとき、頼光が家財道具一切を新調して献上するなど、むしろ受領(地方行政官)の財力による奉仕が目立ちます。
とはいえ、長徳の政変のときは朝廷の召集に応じ、多数の武者を引き連れ内裏に控えており、やはり武人としても頼られていました。道長の御嶽詣のときには、頼光の弟で“大和源氏”の祖とされる頼親がちょうど大和守を務めていて、これも道長にとって心強かったでしょう。
軍事貴族は利益を求めてそれぞれ権力者たちと結びつき、存在感を増していました。ドラマ第33回で、道長は維衡の伊勢守就任に強く反対していましたが、前に記したとおり、彼はかつて致頼と戦を起こしていたのです。維衡は流罪から戻ると右大臣藤原顕光と結びつき、地域での勢力を強めようとします。
維衡から始まる血流は“伊勢平氏”と呼ばれ、約100年後にここから平清盛が生まれます(上記系図「源氏と平家」参照)。一方、道長寄りの源頼光・頼親の血流からは、やがて源氏の武者・源義家や、鎌倉幕府の初代将軍となる頼朝が生まれることになるのです。
第34回では、興福寺の僧が大挙して内裏に押しかけ、要求を突き付ける事件も描かれましたね。寺社も武力を持つことによって、朝廷に楯突くほどの権力集団へ、いわゆる権門化が進みつつありました。
このように、一族繁栄のため『源氏物語』を武器とした道長の“文”の政治の背後で、時代は確かに中世、いわゆる“武”の時代へと動き始めていました。
史料本文:『小記目録』(大日本古記録 岩波書店)
参考文献:朧谷寿『藤原道長 男は妻がらなり』(ミネルヴァ書房)
関幸彦「袴垂と保昌」、野口実「藤原隆家」、近藤好和「源頼光」
(元木泰雄編『古代の人物⑥ 王朝の変容と武者』 清文堂出版)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。