第13回、きゅうぼうしたまひろ(紫式部)の家を訪れたふじわらの宣孝のぶたかは、鮮やかな黄色の上着を着ていました。まひろの父・藤原為時ためときが「たけもうでにその姿で行かれたのか」と驚いていましたね。宣孝のこの御嶽詣エピソードは、『まくらのそう』に記されている一件です。

御嶽詣とは、吉野のきんせん参詣さんけいすること。修験道しゅげんどうの聖地でごやくがあると人気でしたが、厳格なしきたりがあり、参詣にはあらかじめ数十日間も身をきよめる必要がありました。また、どんなに身分の高い人でも、質素な浄衣(白装束)で参詣するのがならわしでした。

ところが宣孝は、皆と同じ格好では大勢の参詣者たちにもれてしまい、願い事もかなわないと考えたというのです。

「あぢきなき事なり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。必ずよも『あやしうて詣でよ』と御嶽さらにのたまはじ」

「つまらぬことだ。人と同じただの浄衣を着て詣でても、何のご利益がある? 絶対に質素な身なりで詣でよとは、まさか御嶽様もおっしゃるまい」
(『枕草子』「あはれなるもの」)

そこで宣孝が一計を案じたのが、ドラマのあの装束だったというわけです。『枕草子』によれば、「紫のいと濃きさしぬき、白きあを山吹やまぶきのいみじうおどろおどろしき(濃い紫色のズボンに白い上着、たいそう鮮やかな山吹色の衣)」でしたから、目のちかちかするような色の取り合わせですね。

さらに同行した息子の隆光たかみつにも、青色の上着と紅の衣、がらりの水干すいかんというはかま(ニッカーボッカー式の短パン)を着せて、連れ立って参詣したものですから大変です。行き交う人たちは皆目を丸くして「いにしえから今に至るまで、この山でこんな格好の者は見たことがない」とあきれかえったとか。

朝もやに煙る奈良県吉野山。中央の大きな屋根が金峯山寺おうどう(本堂)
金峯山寺の蔵王堂は国宝に指定(写真ともに提供:金峯山寺 撮影:高橋良典)

宣孝のこの御嶽詣が、正暦しょうりゃく元年(990)の3月末から4月初めのこと。それからほんの2か月ほどしかたたぬ6月10日、九州のちくぜんのくに(現在の福岡県)のかみが突然辞任して、宣孝はその後任に抜擢ばってきされました。

筑前は遠国でしたが、九州全体を統括する役所・ざいがあり、中国大陸との外交交渉の窓口となっていました。貿易も盛んに行われて、舶来品にいち早く触れることのできる華やかな土地です。「宣孝の言ったとおりになった。ご利益があったのだ」。そう人々がうわさしたと、『枕草子』は記しています。

宣孝は為時と同じくざん天皇の時代に蔵人くろうど(天皇付きの秘書官)を務め、かん2年(986)に花山天皇が退位し一条天皇が即位すると、やはり為時と同じく蔵人の職を解かれました。ただ、宣孝は左衛さえ門尉もんのじょうという武官の職を兼任していて、こちらは解かれませんでした。

そのため、為時のように窮乏することはありませんでしたが、さらに上の官職がほしいと御嶽詣を思いついたのでしょう。奇抜な服装も、息子連れで行ったのも、祈願にかける思いゆえかもしれません。ちなみにこの息子・隆光は、『枕草子』の写本に記された註釈によると天禄てんろく2年(971)生まれ。まひろとほとんど同じ年恰好としかっこうです。

ところで、せいしょうごんがこのエピソードを『枕草子』に記したことには、かなしい理由があったと推測されています。父のきよはらの元輔もとすけが、この正暦元年6月に亡くなったのです。彼は寛和2年(986)にごのくに(現在の熊本県)の守に任ぜられており、赴任してその地で亡くなったようです。

宣孝の前任にあたる筑前守が突然辞職したのも同じ6月で、理由は息子や家来たち30数人が立て続けに病死したことでした。おそらく筑前でえきびょう(感染症)が流行したのでしょう。肥後国と筑前国はそう離れていません。元輔の死も、同じ疫病にかかったためだった可能性があります。

そうだとすれば、人の不幸によって幸運を得た宣孝に対して、清少納言が複雑な思いを抱いていたとしても不思議ではありません。そのため、のちに『枕草子』を書いているとき、「御嶽詣」に関連してこのエピソードを思い出したのではないか―― そう考えると、面白おかしい『枕草子』の行間に哀しみがにじんでいるようにも感じられます。

ただ、清少納言の筆は、じめじめしてはいません。この一件は「あわれなるもの」の章段に入れられていて、「若くてかっこいい男が御嶽詣をするのは哀れ(物悲しい) 」と言いながらも、宣孝のエピソードについては「これは哀れではないけれど、御嶽詣の話題のついでよ」と、からっとしています。

清原元輔は人を面白がらせるのが得意で(#7 “ライバル”清少納言登場! そのたぐいまれなる文才と笑いのセンスは父譲り?) 、その娘・清少納言自身も明るいタッチの『枕草子』を書きました。宣孝の珍妙な行動も、出世への欲望も含めて、清少納言にとってどこか共感できるものだったのかもしれません。

それにしても、このエピソードには、宣孝という人物の人柄がのぞいていると言えるでしょう。ご利益を求める俗っぽさはもちろん、物事にこだわらない柔軟さ、思いついたら突飛とっぴなこともやってのける実行力、目立つことを楽しむ華やかさも見て取れます。

のちに紫式部の夫となる宣孝。後年、紫式部がつづった和歌集『紫式部集』には、彼からもらった恋文のことが記されており、そこにもまさに同じ性格が覗いています。どんな手紙だったか? それは、これからドラマに登場するかもしれません。お楽しみに。

引用本文:『枕草子』(新編日本古典文学全集)

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。