長保元年(999)春、一条天皇が彰子の入内を認める一方、“出家した中宮”定子の懐妊が明らかになると、貴族社会には緊張が走りました。左大臣藤原道長は、娘の入内を11月とし、定子の出産と同時期にぶつけます。定子が皇子を出産したとしても、彰子の入内の華やかさによって世の動揺を抑えられればと考えたのです。
じつは、定子の出産に対する道長の横やりはこれだけではありません。
当時、血や死を嫌うケガレの思想により、宮中や大内裏(役所区域)では出産することができませんでした。そのため定子は8月9日、出産に向けて職の御曹司から中宮職役人・平生昌の住まいに引っ越します。しかしその日、道長は宇治遊覧に勝手に出かけ、貴族社会に大きな混乱をひき起こしたのです。
定子の引っ越しは行啓(皇族の公式行事)にあたり、公卿から上卿(主務者)を選んで担当させる必要がありました。蔵人頭(天皇の主席秘書官)だった藤原行成は、天皇の命で5日も前から上卿の人選にかかっていましたが、なかなか決まりません。
ついに当日となり、行成が道長に相談しようと左大臣邸に行くと、彼は暁から藤原道綱や藤原斉信と宇治の別荘に遊びに出かけていました。宇治は遠く、行啓の時間までに戻ることはできません。
藤原実資はこのことを自宅で聞き、ピンときたようです。
行啓の事を妨ぐるに似たり。上達部、憚るところ有りて参内せざるか。
道長は中宮の行啓を妨害しているようだ。公卿たちは忖度して内裏に参らないのだろう。
(『小右記』当日)
道長の宇治行きは定子への非協力を示すものであり、公卿たちには無言の圧力となったというのです。
天皇は行啓決行の意志をまげず、行成は部下を動員して上卿探しに駆け回りました。すると手を挙げたのが、中納言藤原時光でした。「体調が悪いし、物忌み(陰陽道で謹慎すべき日)なので断ったが、重ねてご命令とあらば」——。天皇に恩を売ろうというわけです。
時光は、公卿の席次で道長に次ぐ右大臣藤原顕光の弟です(下図)。顕光・時光の父は道長の父・兼家の兄である兼通で、彼らは生前、骨肉の権力争いを演じました(コラム 序の巻3参照)。それぞれの子の世代になっても両家は対立関係にあり、時光は道長を出し抜く好機と考えたのでしょう。
行啓はこのようなごたごたの末、ようやく実現します。ちなみに中立派の実資も呼び出しに応じましたが、そのときにはすでに上卿は時光に決まり、実資は行成に感謝されつつ帰宅しました。
この日のことは、清少納言の『枕草子』にも記されています。清少納言は定子のお供で転居先の生昌宅に入りました。定子は輿で正門から、清少納言たち女房は牛車で北の通用門から入ります。ところが北門は狭く、牛車がつかえて入れません。しかたなく彼女らは牛車を下り、歩いて御殿に入ることになりました。
清少納言は牛車のまま御殿に入れると思っていたので、髪を整えていませんでした。それが衆目を浴びることになり、腹が立って収まりません。御殿に上がり、さっそく定子にこぼしたところ、定子はこう答えました。
「ここにても人は見るまじうやは。などかはさしも打ち解けつる」と笑はせ給ふ。
「ここに来たからといって、人に見られないことはないでしょう。髪もとかさないなんて、どうしてそこまで油断したことかしらね」とお笑いになる。
(『枕草子』「大進生昌が家に」)
清少納言の気のゆるみを、笑ってたしなめたのです。
実際、生昌宅は皇族を迎えるにはあまりにもみすぼらしい家でした。そのこともあって、清少納言は到着直後からイライラしていました。しかし、強いショックを受けたのは、清少納言よりもむしろ定子だったのではないでしょうか。
当時、皇族が滞在する場合、その家の正門は格式高い四足門(門柱が前後に2本ずつある門)に造り替えるのが通例でした。ところが生昌宅は簡素な板門のまま。人々は「宮様の御輿が板門を出入りするなど前代未聞」とつぶやきました(『小右記』八月十日)。
門を改築しなかったことは、家の主が定子に敬意を払わなかったことを表しています。定子は屈辱を感じたでしょう。しかし『枕草子』は、定子が受けた辱めには触れず、著者自身をピエロにして、笑って諭す聡明な定子像を描いているのです。
そもそも定子の転居先の主・生昌は、かつて定子を裏切った人物でした。長徳2年(996)10月、流罪に処せられていた藤原伊周が密かに上京し、妹の定子のもとに隠れていたとき、中宮職の管理職にあった生昌は、それを道長に密告したのです。
定子の出産場所が生昌宅と決まったことにも、道長が関与しているかもしれません。とすれば、生昌宅は、定子にも清少納言にも安心して過ごせる場所では到底なかったでしょう。それでもここで出産せざるを得ない……。それが、このときの定子の置かれていた状況だったのです。
11月7日、定子は皇子を産みます。天皇は喜びましたが、貴族たちは陰口をたたき、出家した身で出産したことを批判しました(『小右記』同日)。
定子は、これほどにも世間の冷たい目に耐えなくてはならなかったのです。
引用本文:『枕草子』(小学館 新編日本古典文学全集)
『小右記』(岩波書店 大日本古記録)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。