いちど取りやめた展覧会が開催へ
2020年、パリのギメ美術館で『源氏物語』に関する展覧会が、ギメ美術館と笹川日仏財団の共催で開かれることになっていた。『源氏物語』の現代語訳をさせていただいた縁で、私もそれに参加することになっていたのだけれど、パンデミックで取りやめになった。
そんなことをすっかり忘れていた2023年の初夏、あの展覧会を2023年の11月から開催する運びとなったという連絡を、笹川日仏財団からいただいた。2024年に、以前企画していたイベントを行うという。
イベントに参加するのは、当初と同じ、詩人の高橋睦郎さん、古代・中古文学研究者の河添房江さん、そしてステラnetの連載でおなじみの、平安朝文学研究者の山本淳子さん、山本さんの対談相手として私も声を掛けてもらった次第である。
5年ぶりのパリ
そんなわけで2月の終わり、私たちはパリへと旅だった。
私が最後にパリにいったのは2019年で、そのときも文学シンポジウムがあって呼んでいただいて、私は3泊5日という弾丸旅行だった。今回も私は3泊だけの滞在である。
着いた日のパリは雨で、思いのほか寒かった。町並みはさみしく見えるが、しかしパリは「パリっぽい」としか形容できない個性がある。白を基調とした石造りの古い建物がずらりと並ぶ光景を見ると、ああパリにきたと実感する。
じつは私はパリの源氏物語展について、よくわかっていなかった。だいたいいつも、イベントに呼んでいただくときは、何のイベントなのかよくわからないまま、自分は何をすればいいのかだけを確認して出かけていくのである。
着いた翌日、ギメ美術館の展覧会を見せていただくことになり、またしても小雨のなか、イベント参加者全員で美術館に向かった。
“度肝を抜かれた”『源氏物語』の展示
フランスで『源氏物語』はどのように読まれているのか、あるいはまったく読まれていないのか、そのことも知らないながら、展覧会はきっと空いているだろうと思っていた。フランス人より、在仏の日本人の来館者のほうが多いだろうと思っていた。
だからギメ美術館の前でタクシーを下りて、行列ができていることにびっくりした。開館を待つ人の列である。
のちに聞いたところによると、この2月末の時点でギメ美術館の来館者数は史上初の8万人以上という、主催者も予想していなかった事態となっているらしい。
展示がとにかくすばらしいと口コミで話題になり、連日、かなりの数の来館者があるという。開館を待つ行列に加え、小学校低学年とおぼしき子どもたちが、引率の先生がたに連れられてやってきて、並んで開館を待っている。
こんなにちいさい子たちが『源氏物語』の展示を見るなんて! と驚きながら、つい私は山本淳子先生のことを考えた。山本先生が『源氏物語』にはじめて触れたのは、小学生のころだったという。もしかしてこの子どもたちのなかに、未来の山本先生がいるかもしれない、などと想像してしまった。
展示されているのは、『源氏物語』をモチーフにした浮世絵や書籍、漆器、漫画と多岐にわたり、マリー・アントワネットが所有していた初音巻モチーフの蒔絵香箱も展示されている。なかでもメインは源氏物語錦織絵巻四巻の展示である。
西陣織の織元、山口井太郎氏が40年近い歳月をかけて織った錦絵だと、パリに着いてから聞いていたが、織物に知識のない私は、どんなものなのかまったく想像できなかった。だから展示を見て度肝を抜かれた。
現存する絵巻をもとに、絵画ばかりか文字までもが、織りこんである。これが本当にうつくしい。御簾の透けかた、花びらの色合いがそれぞれ違う桜、囲碁の盤、調度、畳の縁の模様、あまりのうつくしさ、細かさ、仕掛けに、顔を近づけて見ても見ても見飽きない。
いっしょに見ている河添先生が、どの場面の絵か、何を意味しているか、実物の絵巻との違い、絵のなかのちいさな企みなど、説明をしてくださって、私はあまりの僥倖にくらくらした。
私たちが見ているあいだに、この一室はどんどん混んでくる。みなさん、ガラスに顔をくっつけるようにして織物を見ている。
イベントの盛況ぶりに驚く
イベントは翌日の10時半からはじまった。会場は8割がた埋まっている盛況ぶりである。
私が驚いたのは、10時半に主催者の挨拶があり、その後11時に高橋先生の講演がはじまるのだが、そのまま休憩なく、12時からすぐに山本淳子先生の講演になり、その後昼休みを挟んで、2時半から山本先生と私の対談、4時から河添先生の講演と、昼休み以外の休憩がなく続く。
8割がた埋まった客席も、疲れてだんだん人が減っていくのではなかろうかと不安になったのだが、驚いたことに、だれも出ていかない。展覧会は空いているだろうという予想にはじまって、私はフランスの人たちを甘く見ていたなあと反省した。
高橋先生は和歌について、山本先生は『源氏物語』のなかの「光」の変遷について、河添先生は『源氏物語』のなかの唐物についての講演だった。ものすごく熟練した3人の通訳のかたの同時通訳付きである。どの先生のお話も、知識のない私にもわかりやすい、中身の濃い講演で、私はいち聴衆として感激しどおしだった。
私は先生がたのようにきちんとした話はできないが、山本先生のおかげで、なぜ『源氏物語』は千年も読み継がれているか、今の時代にはどう読まれているか、などたのしく話すことができた。
『源氏物語』はフランス語に翻訳されているが、平安王朝を意識した、非常に格式高い文体で訳されているという。講演の通訳をしてくださった通訳者のかたによれば、それを読破しているフランス人は少ないはず、とのこと。
日本で考えてみれば、谷崎潤一郎訳が近いのではないか。『源氏物語』自体は知らずとも、展示で興味を持って講演を聞きにきた人の多さを考えると、フランスでは本当に新鮮な知的好奇心を持ったかたが多いのだと思った。昼休みに入ったとき、「お話が本当にすばらしかった」と山本先生に伝えにきたフランス人のご婦人も、男性もいた。
展示が終わる3月末までに、おそらくギメ美術館の歴史的な来館者数になるだろうと主催者が話すこの展覧会の情報が、「光る君へ」で盛り上がっている日本にまったく届いていないのはものすごく残念なことだ。
この貴重な絵巻は、一度こうして展示したのちは、傷みから守るため、4、5年は保管し、人の目には触れさせられないのだという。次に一般公開されるのは10年後ではないか、という話を聞いて、この異様なほどの盛況さをNHKが取材してくれたらよかったのに、などと思ってしまった。
1967(昭和42)年、神奈川県生まれ。小学校1年生で本を読むこと、書くことに夢中になり、早稲田大学卒業の翌1990(平成2)年、「幸福な遊戯」でデビュー。『対岸の彼女』で第132回直木賞を受賞。『紙の月』『八日目の蟬』はNHKでドラマ化もされた。「読書は旅に出るようなもの」という言葉どおり、各地をバックパックで旅するエッセーも好評。14歳の猫トトが大好き。
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