「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり――」

中学校の古文の授業で習う「源氏物語」の一説ですが、これをポルトガル語にすると……?

NHK財団・国際制作部では、NHK番組を海外の人に視聴してもらうべく、英語やその他の言語版の制作を行っています。今回はEテレ「おはなしのくにクラシック」のポルトガル語版を制作しました。日本文化に興味を持つ海外視聴者のみならず、国内に住むブラジル人の子どもたちに古文の面白さを知ってほしい、という思いも込めた取り組みです。


すずり」をポルトガル語でどう伝える!?

「おはなしのくにクラシック」は『徒然草つれづれぐさ』や『源氏物語』など古典文学(古文)の名作を取り上げ、その面白さをわかりやすく伝える番組です。日本の子どもにとってわかりやすい番組とはいえ、今回は「日本語を母語としない人に向けて、別言語版を作る」ということで、慎重な翻訳が必要でした。

そこで私たちがタッグを組んだのが、長年日本に住む木村サーラチエコさんをはじめとする在日ブラジル人チームです。

文学作品の翻訳作業というのは、言語だけでなく、文化の理解も含めた高度なスキルが必要です。まして古文となると、単語一つをとっても適切な単語を選び抜くのに骨が折れる作業となります。

実際、翻訳を始めてみると、日本語に対応するポルトガル語の単語や言い回しが存在しない、ということがたびたびありました。そのたびに話し合いながら制作を進めましたが、一つ解決すればまた次の難関が現れます。木村さんと私たちが最初に頭を抱えたのは、『徒然草』(兼好法師)に出てくる「硯」という単語でした。

「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』より)

木村さんの最初の提案は、「tinteiro(インク壺)としましたが、問題ありませんか?」というものでした。筆で文字を書く習慣がないブラジルでは硯自体になじみがないのです。しかし、インク壺と硯はまったく異なるもので、兼好法師がインク壺を使ったとすると間違った印象を与えてしまいます。

何度かやり取りを重ねる中で思い起こしたのが、在日ブラジル人のティーンたちの存在。今回のポルトガル語版をぜひ観てもらいたいと思っている子たちです。彼らは日本在住なので書道を授業で習っていることが多い。書道を知っていれば、硯と聞いてイメージがつくはず。

だったらpedra de tinta(インク石)という単語ならわかってもらえる! 木村さんも納得してくれ、pedra de tintaの採用が決まりました。

翻訳を担当した木村サーラサチコさん(右)と全体コーディネートを務めてくれた松浦ラファエル裕司さん(右から2人目)。

翻訳を担当してくれた木村さんは12歳で一度来日し、15歳の時に再来日。夜間中学校に通って日本語を学び、現在は、ブラジルと日本の架け橋となる仕事に取り組んでいます。

今では流ちょうな日本語を操る木村さんですが、在学中は古文の学習に苦労したそうです。そんな背景もあり、子どもたちの学習の一助になれば!と熱心に翻訳に取り組んでくれた木村さんの思いが実を結んだ瞬間でした。


「光る君へ」にも関係する難関単語とは!?

次なる難関は大河ドラマ「光る君へ」と関わりが深い『源氏物語』(紫式部)です。

「『すずめの子をいぬが逃がしつる、ふせうちめたりつるものを』とて、いとくちしと思へり」(『源氏物語』より)

光源氏が最も愛した女性・紫の上が、

「雀の子を犬君が逃がしてしまったの。かごの中にちゃんと入れておいたのに」

とくやしそうな表情を浮かべるシーンです。悩んだのは、「伏籠」という単語でした。伏籠について当初、木村さんからもらったのはgaiola(ケージ)という案。「伏籠をcesta(バスケット)と訳すと手提げの籠を連想してしまうので」とのことでした。

しかし、伏籠とは逆さに伏せておく籠のこと。紫の上は、雀を逃がさないように上から籠を被せておいたのです。一方、ケージ(gaiola)は鳥をしっかり閉じ込めておくためのものですから、うっかり逃がしてしまうことはないでしょう。さらに話し合い、さらにイメージが分かるような絵も見てもらい、cesto(高さのある籠)という単語を採用することになりました。


ブラジルではカラスの鳴き声がない……!?

木村さんが「これは難しい!」と一番頭を抱えたのが「狂言『柿山伏かきやまぶし』」です。「柿山伏」は、柿の盗み食いが見つかってしまった山伏と、柿畑の持ち主の攻防を描いた狂言。なんとか逃れようとする山伏がカラスにふんしたり、猿に扮したり……。必死な山伏の姿がなんとも滑稽で、思わず笑ってしまいます。

物語のキーになるのが山伏の鳴きまね。例えば、鳥の鳴きまねはこのような感じです。

「カァ~カァ~、カァ~ カァ~」(カラス)
「ぴい。よろよろよろよろよろ」(トンビ)

当初はこれらの鳴き声(オノマトペ)をブラジルで使われている言葉で表現してもらえばよいかと思ったのですが、木村さんによると、鳥の鳴き声を表現する言葉は一般的に使われていない、というのです! 特にカラスは、木村さん自身、ブラジルでは見たことがない、とのこと。

「カラスの鳴き声を表現する言葉がないとは、さてどうしよう!」となりましたが、「いやいや待てよ?」と考えた制作チーム。ここはあえて日本語のカラスの鳴き声を生かそうと思い立ちました。そのほうが日本語のオノマトペのリズムや響きの面白さを丸ごと感じ取ってもらえるはずと思ったのです。

「カァ~、カァ~」や「ぴい。よろよろ」を担当したフクイさん(左)と、畑の持ち主を演じたリチェリさん(右)。

さらに力を貸してくれたのは2名の声優さんです。フクイ・カルロスさんは日本で聞こえるカラスとトンビの鳴き声をまねし、かつコミカルに表現してくれました。リチェリ・ホドウフォさんは山伏の滑稽な鳴きまねを受け止める畑主の悪ノリっぷりを熱演。収録では2人の掛け合いが絶妙な間合いで合致! ユーモラスなシーンが完成したのでした。


一つひとつの言葉や言い回しを検証し、調べたり、表現し直したしたりする翻訳作業は2か月近く続きました。時間はかかりましたが、あらためて古典文学のストーリーの面白さに触れ、同時にポルトガル語の語彙ごいの豊かさも知ることができました。

完成したポルトガル語版「おはなしのくにクラシック」が、世界中の視聴者や在日ブラジル人の子どもたちの「古文って面白いんだね!」につながってほしいと願っています。

「おはなしのくにクラシック」の国際版は下記リンクからご覧いただけます。(※ステラnetを離れます)「柿山伏」​の「カァ~、カァ~」(4分30秒あたり)や「ぴい。よろよろ」(6分36秒あたり)もぜひ聴いてみてください。ポルトガル語版に加えて、英語版の「柿山伏」もあります。

「おはなしのくにクラシック」ポルトガル語版(NHKワールド JAPAN公式サイト)「O Mundo dos Contos em Japonês Clássico | NHK WORLD-JAPAN」。
英語版もあります「Story Land in Classical Japanese | NHK WORLD-JAPAN」。



日本語の「おはなしのくにクラシック」NHK公式サイトはこちら
原文をじっくり聞いて古文のおもしろさにふれることができます。※ステラnetを離れます。

出典:「源氏物語(紫式部)」「徒然草(兼好法師)」 NHK for School

(取材・文/NHK財団 国際事業本部 鈴木 伊都子)