紫式部という人物は、有名なのに分からないことだらけ。それは、天皇のきさきなど公的な存在でない限り、当時の女性が記録に残されることはほとんどがなかったからです。ただ紫式部が、藤原為時ふじわらのためときという当代屈指の学者の娘であったことは確かです。

厳しい階級社会だった当時、家柄は人生を左右する大きな要素でした。そして紫式部の父方の家には、現代の閣僚にあたる公卿くぎょう、つまりかなりのセレブがいました(下図)。紫式部の曽祖父・藤原定方さだかた(873~932)は、醍醐だいご天皇(885~930)の生母の兄で、政界第2位の右大臣でした。また、もう一人の曽祖父・藤原兼輔かねすけ(877~933)は中納言ちゅうなごんで、政界第7位の地位にいました。

兼輔は平安京郊外の鴨川の堤に広大な「堤中納言邸」を造り、池のほとりに美しい藤の花を植えて家の栄華を誇りました。縁者の定方を招いて宴を開き、『きん和歌わかしゅう』の撰者・紀貫之きのつらゆきを呼んで和歌を詠ませたり、清少納言せいしょうなごんの曽祖父・清原きよはらの深養父ふかやぶに琴を弾かせたり、優雅な暮らしを送っていたのです。

紀貫之は、同じ『古今和歌集』の撰者仲間の凡河内躬恒おおしこうちのみつねが地位の低さに悩んでいたとき、兼輔に彼を紹介しました。兼輔は文学の世界のパトロンであり、人望もあったのです。

その兼輔が詠んだことで知られるのが、次の和歌です。

人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな
(親心というものは、暗闇でもないのに迷うばかり。わが子への心配という道に迷ってしまうのですね)

兼輔は、娘の桑子を醍醐天皇に入内じゅだいさせており、娘が寵愛ちょうあいを受けられるかどうかが心配で、天皇にこの和歌を詠みおくったということです(『大和物語』45段)。

果たして桑子は天皇に愛され、皇子おうじを産みました。この和歌は勅撰ちょくせん和歌わかしゅう(天皇や上皇の命で編纂された歌集)の『せん和歌わかしゅう』にもられています。

平安時代、貴族たちが文化のバイブルと見ていた勅撰和歌集は、為時の家、つまり紫式部の手元にもあったはず。それを開けば、曽祖父の和歌が名歌として載っているのです。紫式部の心はときめいたことでしょう。

為時(右)の粗末な館を尋ねる友人・藤原宣孝のぶたか。宣孝はやがてまひろの夫となる。

ただ、その栄華も醍醐天皇の時代まで。天皇が代わると一家と天皇との血縁関係はなくなり、曽祖父たちも相次いで亡くなって、家は零落れいらくしました。皆、出世しても公卿にはほど遠く、ようやっと貴族になっても中・下流の四位か五位。「りょう」と呼ばれる、地方の国司を務める程度の階級どまりでした。

紫式部の祖父やその息子である伯父たちは、曽祖父たちから受け継いだ和歌の才で“アルバイト”に励み、公卿たちのうたげを盛り上げました。まるでかつての貫之です(「序の巻(2)」参照)。それが家族を抱えて生き延びる道だったのです。

そんななか、父や兄弟たちと違う道を選んだのが紫式部の父・為時です。彼は漢詩文の才能を活かし、大学で学びました。当時、大学は国家に1校だけの官人養成機関で、優秀な成績で卒業すれば優先的に就職できる制度があったからです。コネのない貧しい者たちが官僚を目指して学ぶところ、それが大学でした。

為時は、確かに任官できました。ただ、就けたのは播磨国はりまのくに権少掾ごんのしょうじょう、つまり地方行政機関の第三席補佐という低い地位でした。安和あんな元(968)年のことですから、紫式部の生まれる前だったでしょう。そしてそれ以後も、低迷が続きました。

それでも、彼は息子に、同じ学問で身を立てさせようと、自宅で一生懸命漢文を教えたのです。それがまさか、息子ではなく傍らで聞いていた娘の人生に劇的な影響を与えることになるとは。思いも寄らなかった為時と紫式部だったのでした。

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。