「光る君へ」の舞台は平安の都。「鳴くよ(794)ウグイス 平安京」の語呂合わせは教科書でおなじみですよね。西暦794年に、桓武天皇が平安京=今の京都市に都をうつしました。

都は内裏だいり(皇居)を中心にして、推定十数万人が住む人工都市でした。大路小路が碁盤の目のようにのびて、人々が忙しく行き交います。どんな人たちがいたか、ちょっと覗いてみましょう。

京の住人の圧倒的多数は庶民たち。平安時代の儀式や祭事、風俗を描いた絵巻物「年中行事絵巻」には、開放的で生き生きとした彼らの姿が見られます(下図)。加茂かも(賀茂)祭の行列を、築地塀によじ登って見物したり、赤ちゃんに用を足させたり。表情も豊かです。

国立国会図書館デジタルコレクション 田中有美編『年中行事絵巻考』巻10「加茂祭」より

紫式部とほぼ同じ時代に生きた藤原明衡ふじわらのあきひらの書いた『新猿しんさるがく』には、ある都人の家族の職業がずらりと挙げられています。

博打ばくうち(ギャンブラー)、武者、地主(土地は高かった!)、巫女みこ、鍛冶鋳物師(刀や刃物作り)、学生(日本唯一の国立大学)、相撲(力士)、車力(運送業者)、大工、医師(漢方の薬湯や、動物のヒルに患者の血を吸わせる治療法など)、おんみょう、管絃和歌の上手(音楽や和歌の達人)、無頼漢(無職でぶらぶら)、遊女、能書のうしょ(代筆)、験者げんじゃ(秘法で物の怪退散!)、細工師などなど。そしてこの一家の長の職業はというと、朝廷に仕える官人=国家公務員でした。

紫式部の父も官人でした。律令制では、官人には最上の一位から九位(初位)のランクがあり、各位はまたそれぞれ分割されて、計30段階に分けられていました。その序列関係は厳しく、道で自分より2つ以上官位の上の人に会ったら、馬から下りなくてはなりません。とはいえ、人事異動はしばしばあり、官位は変わります。

そこで、誰が何位なのか分かりやすいように、官人たちの制服は位によって色分けされていました。紫式部の時代は、四位以上は黒、五位は赤、六位以下は青や緑です。「光る君へ」の朝廷の場面では、ぜひこの色に注目してください。

黒色と赤色の装束を着けている人々、つまり位階一位から五位までが、「貴族」と呼ばれる特権階級です。その数は、わずか200名程度でした。貴族は優遇され、牛車に乗るのも、広い敷地に幾つもの棟を並べた「寝殿造り」の家に住むのも、原則として貴族だけに許されたことでした。また、貴族の子は若くして出世しました。父の地位に応じてスタートラインが高く設定されていたからです。

一方、紫式部の父のような六位以下の下級官人は、大学を卒業して試験に合格しても八位スタートで、当然出世に時間がかかりました。そのため、貴族の家と下級官人の家の格差は広がるばかりです。平安の官人社会は格差社会だったのです。

平安時代の有名人と言えば、『古今和歌集』の撰者で『土佐日記』を書いた歌人・紀貫之きのつらゆきがいますが、彼が貴族になったのは40代半ばでした。陰陽師として知られる安倍あべの晴明はるあきらの場合は、おそらく60歳前後です。官人であっても貴族でなければ生活は不安定でした。そこで紀貫之は「大納言だいなごん様の長寿を寿ことほぐ歌」をんだり、安倍晴明も占いや「左大臣邸の地鎮祭」といったまじないなどで、 貴族から私的なオファーを受けて働いていました。朝廷の仕事とは別に副業で食いつないでいたのです。

ちなみに、貴族の依頼を受けて彼らの妻子のために物語を書くというアルバイトもありました。『源氏物語』以前の『竹取物語』や『うつほ物語』などは、男性の官人が本職の片手間に創作したものです。作者の名は伝えられていないものの、物語のあちこちに男性的な口調がのぞき、時には出世できないぼやきが書かれていることから、そう推測できるのです。

ドラマを先取りすることになりますが、『源氏物語』は女性が創作したことが明らかな初めての物語作品です。紫式部は女流作家第1号だったのです。

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。