日本橋の地本問屋紹介[前編](コラム#24参照)では、通油町に地本問屋が集まっていたこと、そして鶴屋喜右衛門(演:風間俊介)がその中でも重鎮であったことを紹介しました。今回は、蔦重(演:横浜流星)が購入した通油町の店の元店主――ドラマで言えば、てい(演:橋本愛)の父である、地本問屋の丸屋小兵衛(演:たかお鷹)を中心に紹介したいと思います。

草双紙の“常識”をくつがえしたとも言える丸屋小兵衛
丸屋小兵衛(豊仙堂・豊僊堂)は、草双紙が黄表紙と呼ばれるようになる前の青本や、錦絵(多色摺木版画)になる前の色数の少ない浮世絵(紅摺絵)を数多く出版していた版元です。“長円形の枠に店名を省略して「丸小」”と記し商標としていましたが、その上に、“丸に「山」”と添えることもありました。この「山」の字は、丸屋小兵衛の氏が山本であることに由来しています。

大田南畝(演:桐谷健太)が記した黄表紙評判記『菊寿草』(コラム#20参照)には、
とあります。丈阿(観水堂丈阿とも)は、草双紙の作者の名です。
じつは、それまでは草双紙には絵師の名は示しても、作者の名は記さないことが普通でした。しかし南畝のこの記述によると、「宝暦 10年(1760)、丸屋小兵衛がはじめて、作者(丈阿)の名を草双紙(青本の時代です)に入れた。そして、草双紙の表紙に紅摺の外題(この場合は題簽/表紙に貼る書名などを記した紙片)を付した」とされています。
丸屋小兵衛は、それまでの草双紙の“常識”をくつがえし、はじめて作者にも光を当てた版元だったと言えるかもしれません。実際、丸屋は丈阿の名が入った草双紙を数多く出版していますし、また、丸小版の浮世絵を見ると、丈阿の句が添えられている例も多く見られます。

「巳之年新板目録」の下段中央に「戯作 丈阿」とある。
※色枠・線は編集部

「早蕨や握る赤木のつがもない」という丈阿の句が入っている、丸屋小兵衛版の浮世絵。
鳥居清満画「四代目市川団十郎の工藤祐経」
宝暦9年(1759)
The Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham Collection
※色枠・線は編集部
丸屋小兵衛と老舗地本問屋・山本九左衛門との深い関係?
丸屋小兵衛は、宝暦(1751〜1764)終わり頃から明和(1764〜1772)中頃にかけて、毎年多くの青本を出版していたのですが、草双紙が黄表紙と呼ばれるようになった頃(安永[1772〜1781]頃/コラム#8参照)から出版数が減少していきます。天明2年(1782)まで複数の黄表紙も出版していますが、経営が思わしくなくなったのか、翌年9月、ドラマの通り、その店舗は蔦重のものとなりました。曲亭馬琴の記した江戸戯作の種類ごとの作者の論評『近世物之本江戸作者部類』にも「(蔦屋は)天明中通油町なる丸屋といふ地本問屋の店庫奥庫を購得て開店せしより……」とあります。
このように見ると、丸屋小兵衛は、宝暦頃から登場した一代の版元のように見えます。しかし、先に紹介した通り、丸屋小兵衛は山本姓です。じつは丸屋小兵衛は、通油町の隣町の大伝馬(町)三丁目に店を構えていた山本九左衛門と関係があると考えられています。
山本九左衛門は、17世紀末の地誌類で、5軒の地本屋(あるいは浄瑠璃本屋)の1軒として紹介されている老舗の地本問屋です(コラム#2、#24参照)。また丸屋の屋号を用いており、商標も“丸に「山」”が入った同じものを用いていました。店の位置こそ大伝馬(町)三丁目と通油町で異なりますが、丸屋小兵衛と山本九左衛門には、親戚筋、あるいは暖簾分けなど何らかの関係があると考えるのが自然でしょう。

享保8年(1723)の刊記がある。
さらに、宝暦頃に活躍した富川房信という絵師がいますが、浮世絵師の来歴を記した『浮世絵類考』によれば、「(房信は)大伝馬町二丁目(三丁目の誤りでしょう)山本九左衛門と云絵草紙問屋也。家衰て後に画師となれり」とあります。つまり、房信の代になり版元の山本九左衛門は経営が傾き、絵師となったといいます。
この富川房信の名が多くの草双紙に見えるようになるのは宝暦の末頃であるため、やはり山本九左衛門は、その頃、経営状況が悪化したということになります。さらにいえば、山本九左衛門は、元文(1736〜1741)末頃から鱗形屋孫兵衛(演:片岡愛之助)とともに吉原細見の出版をほぼ独占していましたが、宝暦10年以降、吉原細見の出版から手を引いています。これも、経営が悪化したことと関係があったのでしょう。そしてその頃から、丸屋小兵衛が草双紙を出版するようになりました。
山本九左衛門と丸屋小兵衛は、宝暦前後には共存していたようで、両者の関係にはわからないことも多いのですが、“丸に「山」”の同じ商標を用いていたこともあり、九左衛門の出版権的なものは、丸屋小兵衛に引き継がれていたと考えるのが自然です。そして蔦重は、天明3年9月、店舗とあわせて出版権的なものも丸屋小兵衛から購入したと考えられています。ということは、蔦屋は、丸屋小兵衛を介した形で、山本九左衛門の出版権をも引き継いだことになります。

ドラマを見ているみなさんならご存じの通り、蔦重は、吉原細見の出版については、すでに鱗形屋から受け継ぐような形になっています。そして、丸屋の店を買い取ったことで山本九左衛門の出版権も手に入れました。このように見ると、蔦重は、18世紀後半に誕生した新興の版元ながら、鱗形屋孫兵衛や山本九左衛門という、大伝馬(町)三丁目の老舗地本問屋2軒の“遺産”を継承したといえるかもしれません。
ドラマにも登場する村田屋治郎兵衛と松村弥兵衛

村田屋治郎兵衛(右)と松村(屋)弥兵衛
蔦重が通油町に店を移した当時、ここには、村田屋治郎兵衛(栄邑堂/演:松田洋治)と松村弥兵衛(ドラマでは松村屋/演:高木渉)なども店を構えていました。
村田屋治郎兵衛は、“丸に「村」”を入れた商標を使用していました。大伝馬(町)三丁目の鱗形屋孫兵衛と並び、初期の草双紙や浮世絵の出版も多く、地本問屋街としての本町通(コラム#24参照)の名を上げた版元の一人と言えるでしょう。

村田屋は、寛政(1789〜1801)後半から、十返舎一九の作品を多く出版するようになります。一九のベストセラー、『東海道中膝栗毛』(享和2年[1802]〜文政5年[1822])も、村田屋の出版です。
村田屋の店は、通油町から、横山町、田所町新町(どちらも通油町からさほど離れていません)へ、その後は深川へと移ります。馬琴『近世物之本江戸作者部類』には、「その後村次(村田屋治郎兵衛のこと)ハ衰へてその板家扶を他に売与しぬる事」とあります。店を移していったのも、経営が思わしくなくなったからかもしれません。

東京国立博物館 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

国立国会図書館デジタルコレクションより転載
一方、松村弥兵衛は、18世紀中頃から出版を始めたと考えられる版元で、“●に白抜きの「弥」、その下に「松村」”とある商標や、“篆書体の「松」”の商標を用いました。通油町に店があったのは短い間だったと考えられ、寛政2年(1790)には、近くの長谷川町に移っていることが確認できます。


左下に“篆書体の「松」”の商標が入っている。
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
※色枠は編集部
蔦重が店を通油町に移した頃、松村は、教訓めいた黄表紙の作者として名の知れた市場通笑の作品を多く出版していました。この時期、通笑は通油町と緑橋を挟んで隣り合う通塩町に住んでいました。
村田屋や松村を見ても、版元と特定の作者との強いつながりを感じます。また、経営が傾きだすと、通油町から移転することがわかります。ここからも、地本問屋にとって通油町に店を構えることは、一種のステータスであったことがわかります。

参考文献:
井上隆明『近世書林板元総覧』 日本書誌学大系76 青裳堂書店
木村八重子『赤本黒本青本書誌 赤本以前之部』 日本書誌学大系95 青裳堂書店
叢の会編『草双紙事典』 東京堂出版
たばこと塩の博物館 主任学芸員。日本近世史、風刺画やおもちゃ絵などについて研究している。東京学芸大学教育学部卒。著書・論文に「支配勘定大田直次郎」(『大田南畝の世界』展図録所収)、「江戸のおもちゃ絵」(『書物・印刷・本屋――日中韓をめぐる本の文化史』所収 勉誠社)、「とてつる拳と鯰絵」(『鯰絵のイマジネーション』展図録所収)など。