今回は、天明(てんめい)3(1783)年の(あさ)()(やま)の大噴火が大きく取り上げられていました。ドラマでは、その大変な状況をに取って奮闘した蔦重(演:横浜流星)が、ついにあの柔和(にゅうわ)狡猾(こうかつ)な宿敵・(つる)()()()衛門(もん)(演:風間俊介)と和解する顛末(てんまつ)となっていました。これからは手を(たずさ)えて、日本橋の通油(とおりあぶら)(ちょう)を盛り上げていくことになるのでしょうか。

他方で、蔦重の妻となった(まる)()の好学の娘・てい(演:橋本愛)の心模様や、吉原(よしわら)をおもな舞台とする蝦夷地(えぞち)をめぐる怪しげな駆け引きの行方も気になるところです。

さて、本コラムでは、浅間山の大噴火の経緯やそれがもたらしたさまざまな影響について見ていくことにしましょう。

浅間山(標高2568m)は、長野・群馬両県境に位置する活火山です。最近でも、平成27(2015)年6月や令和元(2019)年8月に噴火があったように、活発な火山活動を続けています。

噴煙を上げる浅間山(写真:重 由一_stock.adobe.com)

天明3年以前に浅間山が大規模な噴火を起こしたのは、これよりさらに675年前の平安時代、()(しょう)3(1108)年7月でした。このときは、大量の()(さい)(りゅう)が周辺のさんろくを埋め尽くして広範囲に火山灰と軽石(かるいし)を降らせ、上野こうずけのくに(現・群馬県)の田畠は壊滅しました。その後、荒廃地の再開発を通して、上野国・下野しもつけのくに(現・栃木県)西部に多くの荘園が集中的に作られ、中世的な社会体制(荘園公領制)が結果的に生み出されていくことになりました。災害とその復興が歴史を大きく動かしていった一つの事例です。

天明3年の大噴火もまた、社会はもとより政治にまで甚大な影響を及ぼしました。まずは、噴火の経緯や被害の状況を大づかみに押さえておきましょう。

 

3日間降り積もった火山灰で、江戸も大被害に

天明3年4月8日から噴火活動が始まりました。その後は一時的に(おさ)まりましたが、5月26日に爆発があり、続いて6月18日にも大爆発が起こりました。そして、6月26日以降は連日大きな噴火が続き、7月5~7日に最大級かつ最後の大爆発となりました。

7月7日の夜から8日にかけては、高温で粉体状の溶岩流(後年、吾妻(あがつま)火砕流と呼ばれます)が北東方向に扇形に拡がり、山麓の原生林を(ゆる)やかに流れ下りました(樹木を()ぎ倒すまでの勢いはありませんでした)。さらに、8日には、ごく一部に高温の溶岩などを含む常温の土砂が北側斜面を流下し、山麓の鎌原村かんばらむらを呑み込み吾妻川へ雪崩(なだ)れ込んでいきました。

群馬県嬬恋村にある「鬼押出し園」の奇景も、天明3年の浅間山噴火による。(写真は、嬬恋村観光協会HPより)

大量の土砂や岩石によって一時的に吾妻川は()き止められました。次に、それが決壊して()(せき)(りゅう)となり、利根(とね)(がわ)に流入して下流の沿岸一帯に大規模な洪水被害をもたらしました。

被害は、甚大でした。すなわち、被災村数55、流死者1624人、流失家屋1151戸、田畑泥入被害5055こくに及びました。

より広域にわたる被害としては、火山灰や軽石の降下による農作物や人家への被害がありました。噴煙は地球の自転によって起こる偏西風(へんせいふう)(地球の周りを西から東へ向かって吹く風)に乗って東南東に流れたので、これらの降下物による被害は浅間山の南東方向が中心でした。

さらに、震動・山鳴り・雷鳴(火山雷)などが頻繁(ひんぱん)に起こりました。浅間山から離れた江戸でも、7月6日の暮れから戸や障子や建具などがビリビリと地鳴りして震動しました。ドラマでも、前回の最後に次郎兵衛じろべえ(演:中村蒼)が「これよぉ、ダイダラボッチが腹痛起こしているみたいだぜ」と形容していました。

翌日には、一円の空が(かすみ)がかったように曇り、昼頃から風に乗って灰が降り始めました。日暮れ頃から次第に鳴響(なりひび)きが強くなり、(はい)()の降り方も激しくなり、夜中には遠雷のような音がして激しく震動し、灰砂も雨のように降りました。

8日朝には空は土色になり、少し雨が降り、砂が少しずつ降り続きました。そして、午後からまた地鳴りの震動が起こり、夜まで続きました。9日の夜から雨になり、灰砂はようやく静まりました。

ドラマのなかで、蔦重が機転を利かせて通油町に降り積もった灰砂の片付けを皆で行ったのはこれ以降ということになります。

 

天災を“天罰”と捉えた民衆が、田沼政治を追い詰めていく

人々は、この大噴火の原因をさまざまに模索しました。当時は、科学やメディアの役割がまだ限定的で、多かれ少なかれ儒教道徳が思考を規定していたので、人々は大噴火を単なる自然災害とするのではなく、(おご)りを極め(もの)()しみをするような人々の心や態度に原因があると解釈しました。例えば、「これは天の(いまし)めなのだ」と考えるのです。すなわち、「平和な世の中が200年続き上下ともに奢りが(はなは)だしくなったため、人々が倹約を守り農業に励むようにとの教戒(きょうかい)であろう」といった(とら)え方です。

こういう捉え方は、近現代以降、必ずしも消滅したわけではありません。例えば、大正12(1923)年9月の関東大震災のときにも同じような解釈が(とな)えられました。また、平成23(2011)年3月に起こった東日本大震災の際には、ある政治家が津波を「天罰」と発言し物議を(かも)したこともありました。

このように災害を「天罰」と捉えてしまうような“()り方”は意外に根強く残っていくのですが、現在ではそれは批判的に受け止められることが当たり前になっています。一方で、江戸時代の場合は、むしろそういう捉え方を通して政治への批判を正当化していきます。

つまり、大噴火の原因を老中・ぬま意次おきつぐ(演:渡辺謙)の政治に求めるのです。例えば、(いん)()(ぬま)と浅間山は離れているが、両者の間には地脈が通じていて、(意次が)前者を干拓したことが後者の噴火の遠因となったのではないか。あるいは、「)政者(せいしゃ)が庶民を(いつく)しむのではなく(うん)(じょう)(税金の一種)などを(しぼ)り取ったために天は泥や砂を降らせたのだ」といった捉え方です。

このような、「災害は、不徳な為政者や社会のおごりに対して天が下す罰である」といった考え方を天譴(てんけん)(ろん)と言います。

噴火=自然災害という現代の価値観からすると、675年ぶりの浅間山の大噴火やそれにともなう天譴論に(さら)された田沼政治はやや不運な面があったと言わざるをえません。しかも、同時期(1783年6月8日。西暦換算)に、アイスランドのラキ山でも大噴火があって世界規模で異常気象が発生します。

そのなかで、日本では“天明の(だい)()(きん)”が深刻化し、各地で百姓一揆や打ちこわしを(じゃっ)()しました。世上の批判もさらに強まっていき、ついに田沼政治はしゅうえんを迎えることになります。

 

参考文献:
嬬恋郷土資料館編『災害と復興 天明三年浅間山大噴火』(新泉社)
関俊明『浅間山大噴火の爪痕・天明三年浅間災害遺跡』(新泉社)
渡辺尚志『浅間山大噴火』(吉川弘文館)
大石慎三郎『天明の浅間山大噴火 日本のポンペイ・鎌原村発掘』(講談社学術文庫)

 

東京大学グローバル地域研究機構特任研究員。日本近世史・思想史研究者。政治改革・出版統制やそれらに関与した知識人について研究している。早稲田大学第一文学部卒、東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。著書・論文に『近世日本の政治改革と知識人』(東京大学出版会)、『日本近世史入門』(編著 勉誠社)、『体制危機の到来』(共著 吉川弘文館)など。