ドラマ第2回の放送で、吉原細見よしわらさいけんの版元として登場し、ひら源内げんない(安田顕)に「序」を依頼することや細見のあらため(改訂)をつたじゅうざぶろう(横浜流星)に任せた(やらせた?)のは、うろこがたまご兵衛べえ(片岡愛之助)という版元(本の出版元・発行元)です。

孫兵衛は代表的なほん問屋(コラム「序の四」参照)の一人で、江戸の日本橋に近いおおでんちょう三丁目(とおり旅籠はたごちょう)に店を構え、丸の中に正三角形三つを入れた「うろこ」を商標としていました。

三つ鱗の商標

江戸時代、木版印刷技術の発達により出版産業が盛んになっていきますが、17世紀にはまだ出版界は上方かみがたの方が優勢でした。江戸に店を構える有力な版元には、つる喜右衛門きえもんのように本店は上方にあり、江戸の店はみせ、という経営を行っているところもありました。

それに対し鱗形屋は、江戸発祥の版元です。孫兵衛より前の当主はさん左衛ざえもんといいました。

明暦めいれき3年(1657)正月、江戸は2日間にわたる「明暦の大火」に見舞われ、それまで日本橋ふきちょうにあった吉原遊廓よしわらゆうかくは、江戸市中から少し離れた浅草寺の北裏へ移転となりました。鱗形屋の名は、この後まもなく見られるようになります。

まん3年(1660)春、前年の12月に病死した三浦屋の遊女たか(二代目)の伝記を記した遊女評判記『たかびょうくだものがたり』が出版されます。この評判記に「うろこかたや新板」とあり、これが鱗形屋版として確認できるもっとも古い出版物です。

三左衛門の時代の出版物として注目されるのは、菱川師宣ひしかわもろのぶの絵本類や一枚絵の出版です。師宣は初期浮世絵の第一人者で、切手の絵柄でも有名な「見返り美人」(肉筆)を描いています。

鱗形屋と師宣の関係は延宝えんぽう6年(1678)の『ひゃくにんいっしゅ像讃ぞうさんしょう』(師宣画の歌人たちの肖像を添えた小倉百人一首の注釈書)に始まり、以後、てん年間(1681〜1684)にかけて、刊記(出版年月日や刊行者名などが書かれた奥付に当たる)に「鱗形屋」あるいは「鱗形屋三左衛門」と入った師宣絵本を多数出版しています。

また、貞享じょうきょう4年(1687)刊の江戸の地誌『江戸えど鹿かの』や、元禄げんろく5年(1692)刊の『よろず買物かいもの調ちょうほう』(有名商店の買い物案内書)では、三左衛門の店はじょう瑠璃るり本屋5軒のうちの1軒として紹介され、さらに往来物おうらいもの(初等教科書のようなものの総称)にも多くの鱗形屋版があります。17世紀末、手広くさまざまな本を出版していたことがわかります。

(上2点)菱川師宣画『大和やまとのうづくし』より 延宝えんぽう8年(1680)刊 本文と刊記
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

鱗形屋の当主が、三左衛門から孫兵衛に代わった正確な時期はわかっていません。というのも、刊記に三左衛門や孫兵衛の名がなく「鱗形屋」とのみ記されていることも多いからです。

元禄2年(1689)刊の『江戸えどかん綱目こうもく』(江戸の武家や寺社、商人、技術者などを載せた地誌)では、三左衛門が「地本屋」として紹介されているため、このころまでは三左衛門が当主であったことがわかります。

『江戸図鑑綱目』より(部分) 元禄2年(1689)刊 5軒の地本屋の中に、鱗形屋三左衛門の名がある。浄瑠璃本の本屋として紹介されている。※赤枠は編集部
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

しかし、もう少し古い時期に成立したと考えられる浄瑠璃本や往来物などに孫兵衛の名が見られる例もあり(名前のみ後年入れ替えている可能性もあります)、三左衛門と孫兵衛が共存していた時期があったのかもしれませんが、遅くともきょうほう(1716〜1736)ごろには、当主は孫兵衛に変わっていたと考えられます。

ちなみに、年数から考えると、本日のドラマに登場した孫兵衛は享保頃に代替わりした孫兵衛と同じ人物ではなく、次代あるいは何代かあとの孫兵衛かもしれません。

 


 

孫兵衛の時代の鱗形屋の代表的な出版物の一つに、ドラマでも取り上げられた吉原よしわらさいけんがあります。

もともと吉原に関係する出版物としては、遊女の恣意しい的な批評を記した遊女評判記がありましたが、貞享(1684〜1688)ごろには、吉原の茶屋や遊女屋の位置、遊女名とその揚代あげだい(遊女を呼ぶ値段)、芸者名など、吉原全体について記した案内書・吉原細見が出版されるようになります。

先に取り上げたとおり、もっとも古い鱗形屋の出版物として確認できるのは万治3年刊の『高屏風くだ物がたり』。その後も遊女評判記を出版していますが、鱗形屋は吉原遊廓と深いつながりがあるのか、享保12年(1727)に吉原細見の出版を始めます。

そして安永9年(1780)に細見の出版から手を引くまで、ほぼ毎年のように春と秋に出版していきます。

ちなみに吉原細見の出版は、当初は駿河屋や相模屋、三文字屋などが行っていました。しかし例外はあるものの、元文げんぶん(1736-1741)半ばから宝暦ほうれき9年(1759)までは、鱗形屋と山本左衛(鱗形屋と同じ大伝馬町三丁目の版元)、明和7年(1770)から数年間は鱗形屋といずみちゅうろう(もともと鱗形屋の細見のあらためを行っていた吉原の本屋)というように、ほぼ限られた版元が出版するようになります。

鱗形屋のみが出版していた時期もあり、鱗形屋孫兵衛にとって吉原細見という出版物は、長い間看板商品だったのです。

(上2点)鱗形屋孫兵衛版 吉原細見『三改大夫』 元文3年(1738)刊 横形の細見。序文末の「靏鱗堂」は鱗形屋のこと。「鶴林堂」と号する場合も。
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
(上2点)鱗形屋孫兵衛版 吉原細見『書名不明』 元文5年(1740)刊 縦形の細見で、通りを挟み遊女屋を向かい合わせに入れる。※国立国会図書館の本は山東京伝さんとうきょうでん旧蔵本。 
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

また当時は、上方の出版物を江戸で売り広めるため、あるいは自らの出版物を地方に流通させるためには、書物問屋仲間に加入しなければなりませんでした。鱗形屋孫兵衛は、書物問屋仲間にも加入したらしく、寛延かんえん2年(1749)以降、はちもん字屋じやはち左衛ざえもんという上方の版元の出版物の売り広めを盛んに行っていたことが記録からわかります。

一方、江戸で誕生したぞう(絵入りの読み物)の出版も数多く行いました。絵草紙の一つであるくさぞうは、いろの表紙の赤本から、のちに青や黒の表紙がつけられた青本・黒本へと変化するのですが(コラム「序の四」参照)、赤本にも鱗形屋版があり、青本・黒本が始まるえんきょう元年(1744)刊の『たんてて打栗うちぐり』も鱗形屋が出版しています。

当時狂歌の名人として著名だったおおなんは随筆に、鱗形屋が享保(1716〜1736)ごろ、草双紙の装丁を変えたと記しています。ここからも、初期草双紙の版元として鱗形屋が代表的な存在であったことがわかります。

鱗形屋は、とり清満きよみつや鳥居清経きよつねといった鳥居派の絵師の描いた青本を毎年多数出版し(このころの草双紙は、絵師名のみ入っていて作者名のないものも多くあります)、さらに、鳥居派の絵師たちや西村重信、石川豊信などが描いた一枚絵も出しています。

(上2点)鱗形屋版 赤本 『ふんふく茶釜』 表紙と巻頭
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
(上3点)鱗形屋版 青本『分福丹頂鶴』 鳥居清満画 宝暦8年(1858)刊 表紙と巻頭
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

しょくずりになる前の一枚絵 二代鳥居清信画「すえひろほう曽我そが」 享保14年(1729)  
ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

このように、17世紀半ばから出版を始めていた老舗の版元であり、絵草紙出版を牽引していたように見える鱗形屋ですが、じつは今回ドラマで描かれた安永(1772〜1781)初めごろは、苦しい経営をいられていた可能性があります。

というのも、めい9年(1772)2月末、「ぐろぎょう人坂にんざかの大火」と呼ばれる火災があり、江戸の町は甚大な被害を受けました。鱗形屋の店のあった大伝馬町三丁目も類焼しており、版元の大切な財産である多くの版木が焼けてしまったと考えられるからです。

そのようなこともあり、数年後、鱗形屋が関係するある事件が起こるのですが、そのお話はドラマがもう少し進んでから取り上げたいと思います。

 

主な参考文献
松平進『師宣祐信絵本書誌』(日本書誌学大系57 青裳堂書店)
八木敬一 丹羽謙治『吉原細見年表』(日本書誌学大系72 青裳堂書店)
柏崎順子「鱗形屋」(『言語文化』第47巻、一橋大学語学研究室)
柏崎順子「寛文以前の草紙屋」(『言語文化』第55巻、一橋大学語学研究室)

 

たばこと塩の博物館 主任学芸員。日本近世史、風刺画やおもちゃ絵などについて研究している。東京学芸大学教育学部卒。著書・論文に「支配勘定大田直次郎」(『大田南畝の世界』展図録所収)、「江戸のおもちゃ絵」(『書物・印刷・本屋――日中韓をめぐる本の文化史』所収 勉誠社)、「とてつる拳と鯰絵」(『鯰絵のイマジネーション』展図録所収)など。