ドラマも時代がすすみました。版元つたじゅう三郎ざぶろう(演:横浜流星)の存在感が増し、江戸の出版物がひときわ華やかになっていく時期です。これからの展開が見逃せません。

今回は蔦重が日本橋進出をめざし、とおりあぶらちょう本問ほんどんまるの店を買おうとしていました。

18世紀後半、日本橋界隈かいわいは商業の町として栄え、日本橋に店を持つことが商人としてのステータスとなっていました。多くの地本問屋が店を構えており、なかでも通油町には、つる喜右衛門きえもん(演:風間俊介)、むら田屋たや治郎兵衛じろべえ(演:松田洋治)、松村まつむら弥兵衛やへえ(ドラマでは松村屋/演:高木渉)、そして蔦重が店舗を購入しようとしている丸屋小兵衛こへえ(演:たかお鷹)といった地本問屋が集まっていました。

今回は、この通油町を代表する存在であった鶴屋喜右衛門を取り上げたいと思いますが、その前に、通油町とはどのような場所だったのかを説明しておきましょう。

明和頃の江戸切絵図 国立国会図書館デジタルコレクションより転載
※赤字や色線などは編集部

徳川家康とくがわいえやすが江戸に入って間もなく、ほんちょうという町人地が開かれました。常盤ときわ橋から本町を経て、浅草あさくさ橋を結ぶ通りが本町通(筋)で、通油町もこの本町通にありました。通油町を詳しく記すと、「常盤橋御門ヨリ本町筋下ル八丁目通油町」となります。通油町の「通」は、本町通にあることを意味しており、「油」は、灯油を扱う店が多かったことに由来すると言われています。

なお、通油町の西側の隣町は大伝おおでんちょう)三丁目(とおり旅籠はたごちょうともいいました)でしたが、18世紀後半、ここにも地本問屋のうろこがたまご兵衛べえ(演:片岡愛之助)や榎本えのもときち兵衛べえ(途中転入か)が店を構えていました。

いつ頃から大伝馬(町)三丁目と通油町に地本問屋が多くなったのか、正確にはわかりません。しかし、貞享じょうきょう4年(1687)刊の地誌『江戸鹿子』に菱川ひしかわ師宣もろのぶの挿絵を加え、元禄げんろく3年(1690)に出版された『江戸えどそう鹿かの名所大全』(下図)では、山本やまもと左衛ざえもんと鱗形屋さん左衛ざえもんは大伝馬(町)三丁目、鶴屋喜右衛門と山形やまがた市郎いちろう右衛門えもんは通油町の「じょう瑠璃るり本屋」となっており(この顔ぶれは、コラム#2で紹介した『江戸図鑑綱目』の5軒の「地本屋」と同じです)、すでに地本屋の集まる地域としての基盤ができつつあったことがわかります。

『江戸惣鹿子名所大全』より 元禄3年刊・元文4年(1739)印 茨城大学図書館所蔵
※赤枠は編集部

元禄10年(1697)刊の地誌『こっ万葉まんよう』では、本町筋の生業なりわいとして12種の職種を挙げていますが、この中に「上るり(浄瑠璃)本」のほか、「紙問屋」「板木屋」があります。このように本町筋は、すでに17世紀末には、紙や板木といった、本作りに関わる商人・職人が集まる通りであったこともわかります。

 

鶴屋は十返舎一九『東海道中膝栗毛』
広重の錦絵『東海道五拾三次之内』シリーズも刊行

鶴屋喜右衛門(仙[僊]鶴堂)の店頭
斎藤月岑他編・長谷川雪旦画『江戸名所図会』 天保5〜7年(1834〜1836)刊 
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

鶴屋喜右衛門は、鶴が円を描くように羽を広げる商標を用いていました(上図で暖簾のれんなどについているマーク。日本航空のマークによく似ています)。『江戸名所図会』に描かれた19世紀半ばの店舗図からは、(火災などもありましたし、ドラマで描かれる18世紀末の店舗とは異なるかもしれませんが)間口の広い、堂々とした店舗であったことがわかります。

店舗内の風景は、喜多きたがわ歌麿うたまろ画の「江戸名物錦画耕作 新板くばり出来秋しゅったいあき」(下写真)に描かれています。遊女絵や役者絵、相撲絵が並び、掛物絵が飾られた華やかな様子がわかります。

喜多川歌麿画「江戸名物錦画耕作 新板くばり出来秋の圖」 19世紀 東京国立博物館蔵

江戸時代前半、文化の発信地は上方かみがたで、出版業も17世紀には上方の方が盛んでした。江戸の鶴屋は、寛永かんえい(1624〜1644)初期に出版を始めた京の鶴屋(二条通)のみせ(支店のようなもの)として大伝馬(町)三丁目に店を構えました。

当初は、上方の鶴屋(いうなれば本店)の出版物を販売していたと考えられますが、寛文かんぶん(1661〜1673)末には独自に出版を始め、貞享(1684〜1688)頃には隣の通油町に移っていたことが確認されており、その後、京の本店をしのぐ店に成長しました。19世紀後半、店は移転しますが、それまでは通油町の版元として知られていました。

近行遠通撰 菱川師宣画『江戸雀』刊記 国立国会図書館デジタルコレクションより転載
掲載本では撰者名などが削除されているが、延宝5年(1677)頃、鶴屋が大伝馬(町)三丁目に店を構えていたことがわかる。
※赤字は編集部

上記のように、鶴屋は京が発祥の本屋です。上方から江戸への“くだり物”の方が格上であった当時、鶴屋は、他の本屋からも一目置かれる存在だったでしょう。ドラマでも、地本問屋の集まりを仕切るのは、いつも鶴屋です。

また、きょくていきんの記した江戸戯作の種類ごとの作者の論評『近世物きんせいものほん江戸えど作者さくしゃるい』によれば、地本問屋の会所が通油町の鶴屋の店の裏にあったといいます。今回も、地本問屋たちが会合を開いているシーンがありましたが、これも、鶴屋の店の裏ということになります。

版元の代替わりについては、わからないことの方が多いのですが、江戸の出版について研究されていた今田洋三氏は、鶴屋喜右衛門は、安永6年(1777)と文化14年(1817)、天保4年(1833)に当主が没したとしています(『日本古典文学大辞典』「鶴屋喜右衛門」の項)。当然、そのときに代替わりしているはずです(鶴屋の江戸出店は17世紀半ばですから、安永6年以前にも何回か代替わりがあったはずですが、残念ながら不明)。

ドラマでは鶴屋喜右衛門は一人ですが、蔦屋が吉原で出版を始めた頃の鶴屋喜右衛門と、安永6年以降(ドラマでは第12回以降)の鶴屋喜右衛門は、同じ鶴屋でも当主は別人ということになります。そして、『近世物之本江戸作者部類』によれば、現在ドラマに登場している鶴屋喜右衛門は、近房(ちかふさ)という名であったこともわかります。

蔦屋が通油町に進出しようとしている頃、鶴屋は、毎年数多くの草双くさぞうなどを出版していました。とくに芝全交しばぜんこう作の黄表紙は、多くが鶴屋版です。また、ドラマでも取り上げられていた天明2年(1782)刊の黄表紙『御存商売物ごぞんじのしょうばいもの』(コラム#21#22)などは、作者山東さんとうきょうでん(絵師としての名はきた政演まさのぶ/演:古川雄大)の名を上げたことで有名です。

鶴屋は息の長い版元で、19 世紀以降もその時代を代表するような作品を出版しています。例えば、きょう2年〜ぶん11年(1802〜1814)にかけて出版された十返舎じっぺんしゃいっの『東海道中膝栗ひざくり』(途中参加)や、天保てんぽう4〜5年(1833〜1834)に出版された歌川うたがわ広重ひろしげ永堂えいどう版「東海道じゅうさんつぎうち」シリーズ(途中撤退)などがあります。

歌川広重画「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」 天保(1830~1844)中期 東京国立博物館蔵
画中の右下、「広重画」に続いて「竹孫(竹内孫八=保永堂) 鶴喜(鶴屋喜右衛門)」という丸い朱印がある。

また、文政ぶんせい12年〜天保13年(1829〜1842)にかけて出版され、ベストセラーとなったりゅうてい種彦たねひこ作『にせむらさき田舎いなかげん』も鶴屋の出版です。この作品は、将軍家の大奥を題材としているといったうわさが立ち、天保改革の折に絶版となりました。曲亭馬琴は『著作堂雑記』で、作者の種彦は譴責けんせき(厳重注意)処分となり、鶴屋が捕縛されたとしています。さらに馬琴は、その頃、鶴屋の経営が傾いていたとも記しており、実際にえい5年(1852)に「地本双紙問屋」の株を辻岡つじおか文助ぶんすけに譲っているのですが、鶴屋は以後も出版を続けています。往来物おうらいものの出版も多かった鶴屋は、明治の末まで、教科書出版や伝記、法律の書物などを出版しており、仙鶴堂の名が確認できます。

このような老舗の鶴屋喜右衛門が店を構えていた通油町。果たして首尾よく、蔦屋重三郎もその仲間入りができるのでしょうか……。

 

参考文献:井上隆明『近世書林板元総覧』青裳堂書店

 

たばこと塩の博物館 主任学芸員。日本近世史、風刺画やおもちゃ絵などについて研究している。東京学芸大学教育学部卒。著書・論文に「支配勘定大田直次郎」(『大田南畝の世界』展図録所収)、「江戸のおもちゃ絵」(『書物・印刷・本屋――日中韓をめぐる本の文化史』所収 勉誠社)、「とてつる拳と鯰絵」(『鯰絵のイマジネーション』展図録所収)など。