前回のラストに続き、今回も、恋川春町(演:岡山天音)は一人落ちこんでいました。その原因として回想されていたのが、天明2年(1782)秋の「戯作者の会」における、自身の無作法と“断筆宣言”です。
歌麿(演:染谷将太)を主催者に立て、実質的には蔦重(演:横浜流星)が運営したと考えられるこの「戯作者の会」は実際に開催された集まりで、これまで近くにいるようで意外と接点がなかった戯作者たちと狂歌人たちの出会いの場となりました。

つまりこの会は江戸文芸界のあらたな展開を生みだした、たいへん重要な場でしたが、じつは詳細についての記録はありません。実態に迫る唯一の手がかりが、会の案内のチラシ(下写真)です。大田南畝がこの頃出会った人に揮毫(文や絵を書くこと)をもとめた『蜀山人判取帳』に貼りこまれていたようですが、これ自体も、現在では1931年の複製によってしか確認できないのが実情です。

向かって右半分の絵の部分がそのときのチラシで、屏風の前に座って顔を伏せているのが歌麿その人でしょう。背後の屏風は貼り交ぜになっていて、当日、招待したと思われる人物として、春町、朋誠堂喜三二(演:尾美としのり)、芝全交、烏亭焉馬(演:柳亭左龍)ら戯作者のほか、北尾(重政ほか一門)、勝川(春章ほか一門)、鳥居清長といった浮世絵師の名が記され、また右上の黒地の色紙にはうっすらと狂歌師の四方赤良(大田南畝/演:桐谷健太)、朱楽菅江(演:浜中文一)らしき名が見えます。
左半分は、この会がきっかけになって作者たちが仲よくなったことを自讃する「うた麿大明神」の書き入れです。ふざけた名のりではあったでしょうが、まだ駆けだしの歌麿がこの頃から大物になりそうな雰囲気を漂わせていたことを思わせます。
このチラシの現物は一時、戦火で灰燼に帰したと思われていたところ、南畝研究の泰斗・濱田義一郎が、「(おそらく金工作家の)会田富康氏」が所蔵していることを確認し、上掲の複製では欠落している部分を含めて1970年に翻刻(現代の文字におきかえる)・解説しています。
ただ残念ながら、この資料は現在、行方知れずになっているのです。大河ドラマ「べらぼう」の放映を機にふたたび出てくる……ということにならないか、ひそかに期待しているところです。
春町を嫉妬させた!? 京伝の『御存商売物』
さて、前回のドラマの「戯作者の会」場面で春町が問題視していたのが、コラム#21でも触れられていた山東京伝(演:古川雄大)の『御存商売物』でした。京伝が北尾重政(演:橋本淳)門下の絵師北尾政演から、スター作者への道を駆けのぼるきっかけとなった作品です。
各ジャンルの出版物を擬人化して騒動をくり広げさせるという発想は、たしかに草双紙に多用された“ことば”を擬人化するという春町の『辞闘戦新根』(コラム#19参照)と同類で、これを盗用とした春町の言い分ももっともだと言えなくもありません。

しかし『御存商売物』は、さらにいくつもの工夫を加えていました。
まず上方の出版物が赤本や黒本を手下にし、江戸で流行っている青本や洒落本など出版物を妬んで「ケチをつけ」ようとするも、あえなく企みが露見してやっつけられる、という筋書きが江戸戯作の隆盛を自賛、祝福するものでした。
このような出版界の事情を縦糸に、さらに「一枚絵」(役者絵)と青本の妹の「柱かくし」(美人画の柱絵)の恋模様(コラム#21参照)を絡め、さらにそれぞれの出版物らしい事情をちりばめた点も斬新で、その出来映えに春町が嫉妬したというのも無理からぬことでしょう。

企てが露見し、上方からの下り絵本や、赤本・黒本が『徒然草』に意見され、往来物らに落書きされたり根性をたたき直されたりしている場面。
また春町の稚気あふれる個性的な絵柄に対して、北尾派らしい洗練された画風も本作に華を添えていました。南畝が『菊寿草』(コラム#20参照)に続けて、翌年刊行した黄表紙評判記『岡目八目』(本屋清吉版か?)で出版事情の細部を押さえた書きぶりを「こまかい、こまかい」「古今の大出来」と激賞したのもよくわかります。

大田南畝『岡目八目』 江戸中期 国立国会図書館デジタルコレクションより転載
※赤枠は編集部
春町と京伝はふたりとも絵と本文(作)の両方を手がけた作者で、京伝がこうして当初、春町に学んだ面もあることから、気脈を通じる部分があったのかもしれません。今回、蔦重が開いた忘年会で春町が京伝と和解した場面、2人のファンなら誰しもほっこりしたはずです。
春町の新作は23年後のヒット作の着想源に
春町がなんとか案思(アイデア)をひねり出して、蔦重が出版し、京伝をもうらやましがらせた黄表紙『*廓〓費字尽』も紹介しておきたい作品です。
*〓は竹かんむりに愚(以下同様)
「見立て」「振る」も、「金を死なせるのは“やぼ”」(ドラマでは「金で死ぬのは“やぼ”」)「金を生かすのが“つう”」「金を無くすのが“むすこ”」「金の番は“おやぢ”」、さらに「大一座(大宴会)」「大いざ(大きないざこざ)」も、まさにドラマで描かれた通りです。

ドラマで、春町は京伝に「それのおっかぶせでも作ってくれ」と言っていましたが、23年後に実際にリメイクしたのは戯作者の式亭三馬でした。
その本『小野〓譃字尽』(文化3年[1806]、上総屋忠助版)は大好評を博したとみえ、何度も版元を替えて売り出され、多くの伝本が現存しています。これも、元になった『廓〓費字尽』が、時を超えて三馬の意欲を強く刺激するほどの名作だったということでしょう。

蔦重と元木網のタッグで超ロングセラー本誕生
さて、今回の蔦重の忘年会で、元木網(演:ジェームス小野田)が自身の『狂歌はまのきさご』(天明3年、蔦屋重三郎版)の売れゆきについてたずね、蔦重が「すこぶる評判がよく!」と返す場面がありました。ほんの一瞬のセリフでしたが、じつはこの本も蔦重の着眼のよさを表す出版物の一つです。
というのは、この年まで狂歌はその場限りの楽しみと捉えられており、本にして出版されることはほとんどありませんでした(江戸時代初期・前期の狂歌本は別として)。
しかし天明3年、にわかに狂歌本の大ブームが訪れます。
この年、コラム#20でも触れた四方赤良編『万載狂歌集』(須原屋伊八版)、『めでた百首夷歌』(今福屋勇助版)をはじめ、いきなり14点もの狂歌関連出版物が出されます。そのなかで、ほかの多くの版元に伍して蔦重が出したのが『狂歌はまのきさご』でした。
この本は、和歌の作法書として広く用いられてきた有賀長伯著『和歌浜のまさご』(元禄10年[1697]、中野六右衛門版)の題と形式をもじり、木網が著した狂歌の作り方の指南書です(ちなみに「まさご」は砂、「きさご」は巻貝のこと)。狂歌会に参加する人、参加したい人が続々と増えていく近況を踏まえ、蔦重はこうした書物に需要が見込めると目を付けたのでしょう。

しかも、木網は自宅で開いていた狂歌会の参加を無料としていて、江戸中の詠み手の半分が彼の門人だったとも言われます(平秩東作ら『狂歌師細見』 版元未詳、あるいは蔦重版か?)。木網は、そうした新規参入者のニーズをふまえて書ける作者でした。
実際、『狂歌はまのきさご』を見ると、詠み方の基本がよく書かれています。
題を見て、まず「縁」、つまり関連することばを探すこと。「心(発想)」から入るのがいいとはいうが、初めはことばからのほうが入りやすいことなど、実用的な教えが書かれています。
たしかに、巧みにおもしろいことを言うのは上級編ですが、ダジャレならなんとかなるというもの。「上品なる題の時は下品によむべし、下品なる題の時は上品によむべし」という教えも重要です。そのうえ、題の種類ごとに模範となる狂歌のほか、使えそうな語彙が5文字・2文字・3文字など音数ごとに並べられています。これらを組みあわせれば、たしかに容易に狂歌が詠めそうです。
この本は本当によく売れたと見えて、初版の奥付は「吉原大門口 蔦屋重三郎」(流通などで協力を仰いだと思われる京都・大坂の本屋および江戸の前川六左衛門の名も)とされていたのが、日本橋進出後、所付け(住所)を「本町筋通油町」と改め、本文にも多少の手を加えた再摺本が出されます。
さらに寛政12年(1800)、2代目の蔦屋重三郎が、前述の前川および大坂・名古屋の版元とともに内容を修正・加筆し、あらたに版木を起こした『増補狂歌はまのきさご』まで出すに至っています。この版木はその後、別の版元の手に渡って明治まで出版が続けられますから、かなりの需要があったことは間違いありません。
蔦重と狂歌界とのかかわりは、このあとも描かれることになります。その始まりは、じつは今回のドラマの、さりげないこの1コマだったのです。
参考文献:
濱田義一郎「『蜀山人判取帳』(補正)」『大妻女子大学文学部紀要』 2 99-113, 1970
和田博通「天明初年の黄表紙と狂歌」(『山梨大学教育学部研究報告 第1分冊, 人文社会科学系』第31号 1980)
『江戸狂歌本選集』第15巻(東京堂出版 2007)
石川了『江戸狂歌壇史の研究』(汲古書院 2011)
鈴木俊幸『江戸の本づくし 黄表紙で読む江戸の出版事情』(平凡社 2011)
小林ふみ子「『小野〓譃字尽』」長島弘明編『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』文学通信 2019
法政大学文学部教授。日本近世文芸、18世紀後半~19世紀はじめの江戸文芸と挿絵文化を研究している。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。2003年に第29回日本古典文学会賞、2023年に第17回国際浮世絵学会 学会賞を受賞。著書に『天明狂歌研究』(汲古書院)、『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』(角川ソフィア文庫)、『へんちくりん江戸挿絵本』(集英社インターナショナル)など。