今回のべらぼうでは、歌麿(演:染谷将太)が描いた「雛形若葉初模様」(※実際は存在しないドラマオリジナルの錦絵です) の色の仕上がりが、日本橋馬喰町の老舗版元西村屋与八(演:西村まさ彦)が出す錦絵に及ばないことについて、先輩絵師北尾重政(演:橋本淳)と摺師七兵衛から助言を受けているシーンがありました。
錦絵草創期である明和(1764~72)の時代、西村屋は、鈴木春信(1725?~70)の作品を手がけた元祖錦絵版元のような存在でした。新参の蔦重(演:横浜流星)より20年近く前から錦絵界を先導しているため、職人の扱いについても長けていたことでしょう。

重政が言った「色が濃ければいいってもんじゃない」というのは本当です。
さらっと清々しい摺というのは摺師にとっても技術的に難しいそうですが、どちらかといえば濃厚な彩色を好んだ上方発の浮世絵版画と違って、江戸好みのさっぱりとした気風にも合っていた表現といえます。
絵師は、基本的に墨のみで版下絵を仕上げます。頭の中で配色を組み立て、校合摺(輪郭線のみの墨摺)に絵師が文字で色を指定。その指定により、色ごとに色版が彫られます。さらに絵師は摺師に付き添い、細かい色合いを指示したものと思われます。仕上がりは絵の具や紙といった原材料にも関わることから、とくに蔦重のような積極新取の気概に満ちた版元は、その指図の場にもいたのではと想像されます。
浮世絵はその時代の“理想”的美人が描かれた
ドラマの時代設定に合わせて、西村屋から出版された「雛形若菜初模様」の、天明(1781~89)初期に出された比較的保存状態の良い図を見てみましょう。

メトロポリタン美術館蔵 The Howard Mansfield Collection, Purchase, Rogers Fund, 1936,
The Metropolitan Museum of Art
「雛形若菜初模様」シリーズは、安永4年(1775)から礒田湖龍斎(演:鉄拳)の筆により始まり、天明3年(1783)に至るまでに140図ほどが確認されています。天明初年(1781)頃、湖龍斎が肉筆画に専念するようになったため、これを引き継いだのが鳥居清長(1752~1815)でした。
ドラマの中の「雛形若葉」には「歌麿」の署名がありつつ、絵は清長風なので、この画風からしてもドラマの時代設定は、天明初期ということになります。
個性が求められる現代とは感覚が違いますが、浮世絵の美人画では、その時代ごとの好みに沿って、理想の美人像が描かれます。そのため、個々の絵師の画風というよりも、時代ごとに特徴があり、美人のスタイルにも流行がありました。
湖龍斎の時代には、比較的体格の良い、現実的な体の厚みを感じさせる画風が好まれましたが、清長の時代は、すらりとした八頭身美人が流行します。もちろん、日本人の体型が急激に変化したわけでもなく、流行りの美人像ということになります。絵師たちは、自分の表現というより、まず時代の求める表現を実現することで、人気を得ていくのです。

礒田湖龍斎「雛形若菜初模様 松葉屋内 松の井」大判錦絵 安永4年(1775)頃 版元:西村屋与八 蔦屋重三郎
東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
赤色・紫色に使われた「紅」は超贅沢な画材
「雛形若菜初模様」シリーズでは、質の良い「紅」が多く使われています。錦絵に用いられる赤色は、紅花から精製された「紅」を使いますが、大量の原料からほんの少量しか生産・流通しないため、薄利多売の採算の上に成り立っていた浮世絵版画(コラム 序の三 参照)に使われる画材の中ではとても高価でした。
しかし、多くの人が好んだ錦絵に欠かせない赤色に用いられたが「紅」であり、赤色ばかりでなく、紫色も「紅」と「青花」との混色で作られました。ただ「紅」は光に当たると褪色する性質があり、上の図でも、赤色が褪めてしまっています。衣桁にかけられた松の井の打掛や禿の帯も、もとは紫色でした。
「紅」の使用、また当時まだ珍しい大判(およそ36.5×23.2)という紙のサイズからしても、このシリーズは贅沢な出版でした。さらに遊女の突き出し(デビュー)に合わせて発行されたと考えられる図が多いことから、吉原側の宣伝を兼ねた「入銀物」(コラム#3参照)であると推察されています。

シカゴ美術館蔵 Clarence Buckingham collection, Art Institute of Chicago
清長が描いた“岡場所”の風俗と美人画
清長は、江戸橋近くの本材木町一丁目の版元白子屋が実家で、錦絵出版の中心地である日本橋勢に近い立場にありました。多くの作品を西村屋から出版していますが、一方で、高津屋伊助という版元からも清長の優れた錦絵が出版されていることがわかっています。高津屋は、日本橋の乾物問屋にんべん3代目の当主高津伊兵衛の四女むらの婿で、神田に分家して版元になったという人物です。

シカゴ美術館蔵 Clarence Buckingham collection, Art Institute of Chicago
清長は、吉原よりも、むしろ深川などの岡場所(幕府非公認の遊里)を題材とした美人画を多く残しています。絵の背景に江戸名所を含めた現実の景色を描き込んで実在感を出し、歓楽地ごとの独特の風俗で描く美人画が多くあります。
「大川端の夕涼」(上図)は、高津屋の出版で、当時大川とも呼ばれた隅田川西岸の露天の水茶屋の様子と川端を行く若い芸者が描かれています。紋付の振袖にぺったんこ下駄の2人連れ、母親役の付き添いというのは、日本橋橘町の「踊り子」とも呼ばれた若い芸者の典型的スタイルでした。
日本橋周辺はもちろん、深川や品川といった歓楽街は、日本橋以南の男性が気軽に遊べる場所であり、田沼時代の重商主義ゆえに、こうした幕府非公認の歓楽地も、浮世絵版画の題材として黙認され人気を得ていたのでした。
登場人物をさまざまな出版物になぞらえた京伝のヒット作
今回のドラマでは、日本橋通油町の鶴屋喜右衛門(演:風間俊介)が出版した山東京伝(演:古川雄大)作・画の黄表紙『御存商売物』のヒットも話題になっていました。あらためて整理しておきますと、戯作者京伝は、絵師としては北尾政演を名のり、重政の弟子にあたります。

『御存商売物』は、登場人物すべてが、黒本、赤本、青本(=黄表紙)など絵草紙屋の商品に準えられてストーリーが進むという滑稽な内容です。
注目したいのは、「一枚絵」(浮世絵版画)といういい男に惚れた、青本の妹「柱かくし」(柱絵/柱に飾るため細長い判型の紙に摺られた浮世絵版画)による、紙づくしの「くどき」のせりふです。当時の絵の具など、出版物の材料についてわかっていることは少ないのですが、このせりふの中にさまざまな紙の種類が連ねられていることは、研究者にとっても貴重な情報です。

東京大学総合図書館 霞亭文庫蔵
※かっこ内と傍線は筆者
ここで「柱かくし」は自分を下級紙にたとえて卑下しており、錦絵一枚絵の紙は上質であるという扱いです。ついでに言えば、柱かくしは同じ錦絵であっても一段落ちる紙が使われていたらしいことがわかります。
錦絵一枚絵に用いられたのは奉書紙という紙ですが、その滑らかな感触は、当時は額縁などには入れず、手にとって味わった浮世絵版画の美意識にも大いに貢献していたといえます。とくに庶民には、錦絵の紙は、手にする紙の中でもっとも高級でした。

天明(1781~89)前期 版元:泉屋市兵衛 東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
ちなみにこの黄表紙では、吉原の高位の遊女の名を「錦」としています。彼女は錦絵に見立てられた存在なのですが、「紅を惜しまず、一きわ目立だちし色里の衣裳にて、まことに諸国で江戸絵とほめるももっともなり」と称されています。
遊女の化粧や衣裳の紅になぞらえつつも、「紅を惜しまず」とわざわざ書かれるのは、錦絵において高価な紅を惜しんで摺ることが習慣になっていたからに違いありません。近代に入るまで、紅はケチって使えと摺師は教えられたそうです。
さて、べらぼうでは、蔦重が歌麿の才能に期待しつつも、売り上げのために政演を絵師に起用することにしました。実際に、ある時期まで蔦重は、政演を耕書堂の筆頭絵師に考えていたように思えます。ただ政演の絵の良さとも欠点とも言えるのは、その細かすぎる説明的描写でした。京伝としての文才を考えると、やはり絵師より戯作者に向いていたということなのかもしれません。
今後蔦重が重用することになる歌麿が、どのように才能を開花させるのか、ドラマの展開に注目していきたいと思います。

参考文献:
Allen Hockley "The Prints of Isoda Koryusai" the University of Washington Press 2003年
元・千葉市美術館副館長、国際浮世絵学会常任理事。浮世絵史を研究している。学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課修了。2018年に第11回国際浮世絵学会 学会賞、2024年に『サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展』図録で第36回國華賞など受賞歴多数。著書・論文に『浮世絵のことば案内』(小学館)、『浮世絵バイリンガルガイド』(小学館)、『もっと知りたい 蔦屋重三郎』(東京美術)など。