吉原の遊女の美しさは、しばしば花にたとえられます。ドラマ第3回は、安永3年(1774)7月に、蔦重が初めて単独で出版した『一目千本』がストーリーの中心になっていました。
一目で千本の花が視界に入るような景色を意味するこの題は、もとは古代からの桜の名所・奈良吉野山をイメージさせる言葉でしたが、ここでは吉原の花、すなわち遊女たちを一覧するという意味が込められたものと思われます。
ただ『一目千本』は、これ以前に類例のないちょっと変わった趣向の本です。遊女の姿絵ではなく、いけばなの図が連なり、それぞれに花の名、妓楼名、遊女名が記されています。半丁(1ページ)に2図(まれに1図)のペースで、上巻では春夏のいけばなが58図、下巻では秋冬の62図が掲載されています。
これらを東西に分けて出来栄えを相撲の取り組みに見立てて競うという趣向であり、ゆえに序文の題は「華すまひ(=相撲)」とされ、冒頭には土俵と樽一杯の花が描かれた見開き図があります。
絵師は、当代を代表する浮世絵師北尾重政(1739〜1820)で、弟子には北尾政演(山東京伝 1761〜1816)、北尾政美(のちの鍬形蕙斎 1764〜1824)がいて、師弟ともにこの後も蔦重が手がける出版物に大いに貢献することになります。
ドラマの中では、それぞれの遊女の性格が面白おかしく花に見立てられて描かれているというストーリーになっていました。この本の宣伝効果もあって吉原に大勢の客が訪れるようになり、高橋克実さん演じる強面の駿河屋さんもさすがに頬が緩んでいましたね。
いけばながそれぞれの遊女をイメージさせるということでは、『一目千本』が吉原遊廓発生当初からしばしば出された遊女評判記の一種であることは確かです。しかし、翌年の安永4年秋に蔦重が出版した吉原細見『籬の花』の巻末に記された『一目千本』の広告文には次のようにあります。
「君たちの生たまひしゐけ入の図をせううつしにいたし 四季の草花角力の取りくみといたしおもしろき本にて候 御求可被下候」
「君」は遊君、すなわち遊女のことと思われますので、これは実際に遊女たちが生けた花を「せううつし(生写し)」、つまり今の言葉で言えば写生した図という意味に解釈できるかと思います。
※現代語意訳「遊女たちが生けた花をそのまま図にして、四季の草花を相撲の取り組みに見立てた面白い本です。どうぞお求めください」
この本にいけばなが記録された遊女のうち何人かは、まもなく蔦重と西村屋与八(ドラマで演じるのは西村まさ彦)が組んで出版した錦絵シリーズ「雛形若菜初模様」にも登場しますので、ここで、江戸町二丁目玉屋庄兵衛抱えの「呼び出し」の遊女・しづかの図を『一目千本』のものと合わせて見てみましょう。
ちなみに140図を数える「雛形若菜初模様」のうち、蔦屋が版元となったのは最初の12図のみ。あとは西村屋の単独出版です。
実際、華魁と呼ばれるような高い位の遊女たちの嗜みの一つとして、いけばなは大事な心得であったといいます。吉原中米楼の娘として文久元年(1861)に生まれた喜熨斗古登子は次のように述懐しています。
喜熨斗古登子述『吉原夜話』「華魁は大名道具」より(昭和39年初版 青蛙房)
古登子の述懐からは、華魁の生けた床の花が、その品格と心意気を示すような洗練されたものであったことが想像されますが、蔦重が安永5年(1776)に出版した彩色摺の絵本『青楼美人合姿鏡』にも、雅やかないけばなの様子がうかがえる図があります。
なお、蔦重とも縁の深い喜多川歌麿にはいけばな図の一枚摺がかなり多く残されていることも気になっています。
位置付けが難しいため、二代歌麿の作とされることもあるのですが、墨摺で版元印もないものがほとんどです。いけばな師範の手本のようなものか、あるいはこれも遊女が生けたものを記録して贔屓筋に配ったものか、何か吉原に関係するのではないかと思い、私の研究課題となっています。
蔦重の出版ビジネスに欠かせなかった手法「入銀」
『一目千本』では、遊女のランクでいう「座敷持ち」以上の上位の遊女が生けたいけばな図が並んで描かれています。ただ吉原には厳格な格付け序列があるはずなのに、その掲載順には規則性が読み取れず、網羅的に妓楼と遊女を取り上げたようでもありません。
その理由の一つは、これが「入銀物」だからと考えられています。入銀物とは、出版費用を版元がすべて負担するのではなく、広報や趣味的なメリットから一部またはすべての費用を出すスポンサーがついている出版物のことです。
ドラマでもこの言葉が出てきて、遊廓内で蔦重(横浜流星)が資金を集める姿がありました。『一目千本』の一見ランダムとさえ思える妓楼および遊女のセレクトと掲載順は、出資提供があるかないか、そしてその額の多寡によるのかもしれません。
吉原生まれの蔦重は、吉原から遊女の異動情報などとともに資金的支援を得て出版費用を賄い、確実に利益を上げることができたはずです。若い蔦重が、初めての出版、初めての趣向で『一目千本』を出版できたのも、入銀が前提だったからだと考えられます。そして吉原の美意識に恥じない出版への意欲を、誰よりも強く持っていたのも蔦重だったのでしょう。
この入銀による出版という手法は、『一目千本』以降も蔦重ビジネスの常套手段になります。
高価な紅をふんだんに用い、「中判」の判型が主流の時代に、その倍の大きさの「大判」で出した錦絵シリーズ「雛形若菜初模様」。まだまだほとんどの版本(絵本)が墨摺であった時代に、彩色摺で出した『青楼美人合姿鏡』。さらにこの後、狂歌師たちと親交し、絵入狂歌本や狂歌入錦絵を手がける中でも、「入銀」は蔦重に欠かせない手段であったと考えられます。
今後も大いに注目してまいりましょう。
元・千葉市美術館副館長、国際浮世絵学会常任理事。浮世絵史を研究している。学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課修了。2018年に第11回国際浮世絵学会 学会賞、2024年に『サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展』図録で第36回國華賞など受賞歴多数。著書・論文に『浮世絵のことば案内』(小学館)、『浮世絵バイリンガルガイド』(小学館)、『もっと知りたい 蔦屋重三郎』(東京美術)など。