「光る君へ」では、平安時代中期の貴族の暮らしぶりが描かれるが、それらは風俗考証を経たうえで映像化されている。どのような取り組みをしているのか、風俗考証を担当する佐多芳彦氏に聞いた。
平安時代の人たちも記録に残すほど食事が楽しみだった
——「光る君へ」には食事シーンがたくさん登場します。平安時代の人々の食事はどのようなものだったのでしょうか?
現代に比べると品数は少ないですが、季節の野菜は周りにたくさんあったでしょうから、我々よりもはるかにオーガニックでいいものを食べていたと思います。ドラマで描かれるように、貴族の食卓にはたくさんの皿が並べられ、品数の豊富さがステータスだったようです。神様にお供えする「神饌」が起源となって、それを貴族たちが真似たのでしょう。
ご飯は今みたいな白米ではなく玄米で、かなり硬めだったと思います。それを山のように盛りつけて出すのが礼儀なんです。当時の人たちは「〇〇が食卓に出た」と記録に多く書き残しているので、彼らも食事を楽しみにしていたんだと思います。
——当時の貴族たちは、肉も食べていたのでしょうか?
哺乳類は食卓にのりませんが、山鳥などの鳥類は、焼き物や鍋物の具にしていました。鳥は庶民も口にしていたと思います。山鳥と表記されることが多いですが、貴族が食べるのは、大きくて品質の良い雉の類です。説話集の『古事談』の中には、「どのように鳥を食べるべきか」という食べ方論まであって、上手な人は讃えられています。
魚も食べますが、今と決定的に違うのは、生では食べなかった点です。今でも寄生虫の問題があるように、生ものを食べるとひどい腹痛を起こす可能性があります。そして、京都は内陸部で新鮮な海の魚は入ってきませんから、酢締めして食べるのが基本的な食べ方でした。
ただ、京都には鴨川も桂川もあるので、川魚は豊かだったでしょう。京都では夏の初めに「稚鮎」を食べますが、それもこの時代からあったようで、現代の和食のルーツと言えるものは、すでに食されていたかもしれません。
——お菓子はどういったものが食べられていたのでしょうか?
お米を加工したものや、お芋のでん粉を使ったお菓子はすでにあったと思われます。奈良時代に遣唐使がいろいろな食べ物を日本に持ち込んでいるので、揚げ菓子もあったでしょう。ただ、かなりの贅沢品なので、みんなが食べられるものではありません。
甘味料は少なく、現代のような砂糖を使った甘いお菓子はなかったと思います。甘茶の葉や甘葛の茎を煮込んで甘い汁を出し、それを煮詰めたものをかき氷にかけて食べたという記述が『枕草子』に登場します。シロップに白湯を注いで飲むのが、当時の貴族たちの貴重な甘味だったようです。
「光る君へ」の第1回で、小鳥を追いかけてきたまひろに、三郎(後の道長)が丸くて柔らかそうなお菓子を渡すシーンがありました。「粉熟」と言って、米や豆などの粉に甘葛を加えてこねたものですが、この時代にはあっただろうと演出の方に話したのを元に、お菓子の専門家にも相談して作ったそうです。
結婚は貴族にとって将来を決める大事な要素。恋愛結婚があったかは疑問
——所作で、何事も左からというのは、どういう理由なのでしょうか?
神道の作法にもつながるのですが、左が上位という考え方があって、相手に敬意を表したり、自分の尊厳を示したりする場になったときに、儀礼の度合いが高くなると常に左を優先するようになります。並び方から、足の踏み出し方や立ち上がる作法まで、みんな左からやっていくわけです。
起源は明確ではありませんが、左が上座、右がそれより下がる下座という考え方があって、それを守って接することが相手に敬意を示すことになります。だから左足から立ち上がるというのも、神様の前でそうすることによって、自分が神様に対して礼を尽くしていることになるんだと思います。
神道の所作が早い段階で貴族社会に定着していたから、そういう儀礼感覚が広まったのだと考えます。ただ、それは儀礼の度合いによります。天皇の前とか、自分より上位の人の前では左から行動しないとまずかったでしょうが、家ではその限りではないし、揺らぎもあっただろうと考えています。
——当時、貴族たちはどういう恋愛をしていたのでしょうか?
なかなか重い質問ですね。貴族は生まれてこのかた貴族にしかなれない宿命で、ほかに道があるとすれば出家するぐらいしかないんです。そういう社会で生きていくので、跡継ぎを作らないと、家のすべてを誰かに奪われることになりますし、そのためにギスギスした政権争いも起きます。
当時の人たちにとって結婚というと、やはり家と家が結びつくものでした。「光る君へ」でも道長と源氏の関係が描かれますが、本人たちの意思より、家と家による話し合いが優先されていたと思います。男が他家の娘に和歌を届け、それを何度か繰り返すうちに懇意になって、その家に入る。「妻問婚」と言われますが、要するに婿になるわけですから、むしろ「婿入り」婚というべきかもしれません。
そのような結婚でうまくいった例が道長です。源氏の奥さん(倫子)をもらって、奥さんの家の屋敷や財産を引き継いだことが道長の力の基盤になったと言われています。そう考えると結婚は貴族にとって将来を決める大事な要素で、本人たちの意思だけでは進まなかったと思います。いわゆる恋愛結婚のような、キラキラしたものがあったかと聞かれたら、どうでしょう?と答えるしかありません。
「楽しさ」と「平安らしさ」——風俗考証にはバランスが大切
——平安時代を描くドラマの風俗考証で苦労はありますか?
これは大河ドラマに限りませんが、平安時代は、映像作品ではなかなか取り上げられません。その理由は2つあって、まず儀礼感覚が備わっていないと、上下関係や男女関係などの人間関係を描けない点が挙げられます。当時の儀礼は非常に複雑で、わからないこともたくさんあるんですね。
もう1つは、今はもう失われた文化なので、衣装から持ち道具、建築物まで、ほとんどを新しく作らなければいけない点です。この2つが映像化の大きな障壁となっていたと思います。
「光る君へ」では長い準備期間——1年近くかけて、「新しく作るものは何か?」「新しく作るときには、何に注意しないと平安時代らしくなくなってしまうか?」ということを何度も打ち合わせしてきました。美術スタッフは本当に大変だったと思いますし、今もその真っただ中にいますが、平安時代らしい風俗表現は、かなりうまくいっていると思います。
たまに冒険もしますが、そこはエンターテインメント作品なので、ご覧になった方が楽しいと思ってくれなければ意味がないですし、美しいと感じてくれないと「平安らしさ」を訴えにくいためです。演出的デフォルメはありますが、バランスよく取り入れていて、おかしいことにはなっていません。みんなの技術力や知識、ひたすら話し合いを続けてきたおかげと思っています。
——大河ドラマ「平清盛」から風俗考証に関わってこられましたが、進化した部分はありますか?
映画やテレビなどの時代劇は、もともと歌舞伎や演劇の影響を受けていて、衣装に関しては、その方たちの手で基盤が作られました。演劇の世界で確立された衣装の扱いは、効率的運用を求める面から定型が決まっています。でも、そのやり方だと時代性が損なわれたりもするんですね。
それで、「平清盛」のころから「できるだけ史実を優先していこう」という考えに変わってきて、貴族も武士も、衣服の中にできるだけ史実を取り入れようという方針が共有されるようになったんです。
武士の身なりとしては「鎌倉殿の13人」が大きな到達点に達したと思いますし、貴族のほうは「光る君へ」で、ぐんと良くなった気がします。
我々考証担当と美術スタッフ、演出家が、10年来対話してきたものが蓄積され、ここ2、3年うまくいくようになったところに「光る君へ」となって、うまく結実したように思います。
わからないことの根拠を求めて、いろいろな絵巻を探し、見つけたときのうれしさ
——当時の史料がなく、ここは想像で行くしかない、というようなものもありましたか?
それは結構あって、衣服はいい例です。平安装束に関する有職故実の本を見ると、ハレの場、つまり晴れがましい場面で着る服のことばかり書かれています。でも、そうじゃない場面、誰も見ていないところに1人でいるとき、あるいは家族とくつろいでいるときに、そんな厳密な格好をしていたかについては疑問が残ります。
ですから私の思考としては、平安貴族のハレの儀式・儀礼は当然のこととして、「日常をどのように描くか」ということに力を注ぐことになりました。
一方であまり知られていないような衣服の儀礼も採用しました。藤原実資が登場したころ緑色の束帯姿だったのですが、これは「青色」とか「麹塵」とよばれる天皇しか着てはいけない色です。しかし天皇の信用の篤い秘書官の蔵人頭は特別に許可されて着てもいいことになっていました。
高い身分の貴族は、家にいるとき直衣を着るという規定があります。烏帽子直衣という格好ですけど、いつも丸い襟をカチッと留めて、ちゃんと腕を通して、家の中で疲れないのかな、と昔から思っていました。我々現代人も、スーツで出社しても、会社に誰もいなければ上着を脱いでネクタイを緩めて仕事をしたりしますよね。そういうことは平安時代にも当然あったはずです。
根拠を求めていろいろな絵巻を探したところ、少し時代は下りますが、鎌倉時代に制作された『紫式部日記絵巻』や『北野天神縁起絵巻』などに、家で着崩してラフな格好をしている絵を見つけたんです。直衣の襟を外して、腕も通さずに羽織る姿を……。「やっぱり!」とうれしかったです。
第3回に、宿直中の公任が同僚の道長や斉信に自分がもらった恋文を見せて批評する、『源氏物語』の「雨夜の品定め」をモチーフとしたシーンがありますが、そこでは道長が束帯の胸元をガバッと開けています。宿直をサボっている感じを出すためですが、そういう描写を入れることで生活感とか人間らしさが出てくると思っています。
——着物の色のかさねなどについては、視聴者からの異論もほとんどないようですね。
それについては、ホッとしています(笑)。女房たちの着ている襲色目には、ものすごくたくさんの種類があると同時に、厳格なルールもあるんです。だけど、平安時代には多少の融通性があったと考えていて、基本的な色の組み合わせは守りながらも、各自の趣味がプラスアルファされ、個性を発露できていたのでは、と思っています。
「光る君へ」でも基本ルールは決めていますが、「ルール、ルール」とギスギス言わないでおこうと、腹をくくっています。微妙な色の組み合わせの中に、美術スタッフがキャラクターのイメージカラーに合わせた差し色をスッと入れてあったりするんです。
これは、衣装デザインをしてくださった諌山恵実先生がイラストを描かれた段階から、違和感のないアレンジの仕方を考え、たどり着いた世界観です。諌山先生は日本画の基本的な技術を習得されていますし、修補の作業にも詳しく、傷んだ文化財の修理を経験されています。だから昔の人の色使いをよくわかっていて、うまくアレンジしながら監修していただいています。
——一条天皇の即位礼のときの、北斗七星が背中についた装束にも驚かされました。
あれは礼服と言って、天皇が即位式や朝賀などの儀式で身に着けるものです。中国の皇帝が着ていたものを模倣していて、北斗七星などの文様にはそれぞれ意味があり、天皇の権威を示しています。
今回、美術スタッフが頑張って冠から靴までしっかり作り込んでくれたので、正面だけでなく横からも後からも撮影できました。冕冠とか礼冠と呼ばれた冠は金属や玉などの無機質の装飾部品が多く、すごく重いので、蔵人頭が後ろから支えてあげています。一条天皇役の子役さんが、あんなに重い冠を被って演技をしている映像を見て、頭の下がる思いがしました。
紫式部や清少納言が、ものごとを客観視する目を持てたのは……
——風俗考証の立場で、『源氏物語』や『枕草子』をどのように読まれますか?
何も知らずに『源氏物語』を読むと、光源氏はひどい人にしか見えませんし、平安はどういう世の中だったんだと思いますよね。でも、少しでも歴史の知識が入ってくると違った見方ができるんです。
『源氏物語』には光源氏の執務シーンが一切出てこないことを疑問に思っていましたが、いろいろ平安のことがわかってくると、執務シーンを描くと光源氏が手あかのついたような普通の官僚になってしまうことがわかります。史実としての生々しい役人感を、あえて紫式部は『源氏物語』から差っ引いたんでしょう。
その後に『枕草子』を読むと、清少納言は鋭く事象を斬っていきますから、役人たちに関してもいろんな批評を書いています。つまり、当時の貴族は、批判的に見られてもいた存在なんですよね。
「人をどう描いているか」を気にしながら文学作品を眺めてみると、意外に歴史史料としてはかなりリアリティーがあるものだとわかります。国文学の観点でばかり見てしまうのは、あまりにもったいなくて、もっといろんなことを引っ張り出せるのではないでしょうか。
——紫式部や清少納言が作品を執筆した動機を、どのように考えていますか?
考証会議を重ねるなかで思うのは、『枕草子』は清少納言が経験した、人との出会いや別れをもとに作られたものだということです。同じように、『源氏物語』も紫式部がかかわった人たちとの出会いや別れが基本になって書かれたものなのではないでしょうか。
紫式部も清少納言も父親が地方の国司をやっていて、少しの間ですが本人たちも任地について行ってるんですよね。都の外へ出て、貴族社会の喧騒から離れて、初めて自分がいた世界を客観視することができた。その経験が、人間のありようを文章で表現することにつながり、すばらしい文学作品を生み出すきっかけになったんじゃないでしょうか。
そして、紫式部も清少納言も、中宮の女房として朝廷に入り、常に誰かの目に晒されるようになりました。高い身分の出身ではない彼女たちにとって、知らないことばかりだったでしょうし、嫌な部分もいい部分も両方見たと思うんです。第三者としてものごとを見る目を持つ彼女たちにとって、その経験は書いて残したいものだったのではないかな、と個人的には思っています。