『小倉百人一首』の中から、大河ドラマ「光る君へ」の登場人物や親族、また彼らが関係する和歌を紹介する番外編第2弾。(番外編①はこちら)
今回は、中宮彰子に仕えた紫式部の後輩女房・伊勢大輔、同じく同僚・和泉式部、その娘・小式部内侍、そして紫式部の娘・賢子の歌を取り上げます。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
古都・奈良の興福寺の八重桜。今日は平安京の宮中で美しく輝いていることです。
(伊勢大輔)
紫式部の職場の後輩・伊勢大輔の和歌。寛弘4年(1007)、中宮彰子に仕え始めた伊勢大輔が、奈良から献上された桜を受け取る大役を務めたときに詠んだものです。
「いにしへ(古)」と「けふ(今日)」、「八重」と「九重(宮中の意味)」がそれぞれ対応する面白さ。でありながら、技巧が鼻につかない素直な内容。伊勢大輔は”和歌の家”として知られる大中臣家の出身ですが、その才能が見事に発揮されています。
『伊勢大輔集』によれば、桜を受け取る役は紫式部から譲られたものでした。紫式部はこの2年前、彰子の女房に抜擢されましたが、文才による採用は彰子後宮では異例だったため、同僚から異端視され冷たく扱われました。
紫式部はその経験から、同じく文才を見込まれて勤め始めた後輩を思いやり、彼女が皆の前で能力を発揮できるようチャンスを与えたのです。紫式部の苦労と後輩愛がうかがえます。
ところで伊勢大輔がこの和歌を詠むと、彰子は紫式部に返歌を詠ませました。紫式部の気遣いを察し、彼女にも花を持たせようと配慮したのです。この時まだ20歳と若かった彰子ですが、やがて国母とも摂関家の女主人ともなり、宮中でリーダーシップを発揮することになります。その器の片鱗がすでにのぞいていたといえるでしょう。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
わたしはもうこの世からいなくなって、あの世へと旅立ちます。その思い出に、どうかもう一度だけ、あなたに逢いたいのです。
(和泉式部)
和泉式部が病にかかったとき、ある人のもとに送った和歌です。受け取った相手は、当時の習慣として声に出して読んだでしょう。皆さんもどうぞ、音読してみて下さい。五七五七七の各句の頭が、「あ」「こ」「お」「い」「あ」と、第2句以外はすべて柔らかい母音です。
そして唯一の例外である第2句の言葉は「この世のほか」。生と死を意味するこの言葉が鋭く立ち上がって耳に響く仕掛けです。このような演出を本当に危篤状態で考えたとすれば、驚くべき才能です。
さて、和泉式部が死を覚悟して最後に逢いたいという相手は、恋人でしょう。彼女は恋愛体質の女性とされ、夫ある身でダブル不倫を繰り返しました。
最初の相手は、花山院の異母弟・為尊親王。親王が疫病で亡くなってしまうと、翌年その弟の敦道親王と恋に落ちます。これは貴族社会でも評判のスキャンダルとなり、敦道親王の嫡妻が激怒。親王の結婚は破綻しました。
しかし、不幸にも敦道親王にまで死なれた和泉式部は、やがて彰子のもとに出仕して、紫式部や伊勢大輔の同僚となりました。生真面目な紫式部は『紫式部日記』の中で和泉式部の行状を「けしからぬ」と批判する一方、天才肌の歌人と褒めています。
藤原道長は和泉式部に興味を抱き、彼女の扇に「浮かれ女の扇」と落書きしました。「浮かれ女」とは多情な女性のこと。立派なセクハラ+パワハラですね。
でも和泉式部は堂々と受けて立ち、「恋するかしないかは私の自由。道長様は口出し無用」と、ぴしゃりと返しました。勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集)への入集歌数が女性で1位。かの藤原公任からも高く評価された、平安時代を代表する大歌人です。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
丹後へは、大江山や生野を通って行く道のりが遠いので、まだ踏んでみてもいませんわ、彼の地の天橋立は。丹後にいる母からの文も見ておりません。
(小式部内侍)
和泉式部の娘・小式部内侍の和歌。和泉式部は藤原保昌と再婚し、彼の赴任地・丹後(現在の京都府北部)に赴きました。そのとき、都で歌合せ(左右チームに分かれて和歌の優劣を決める歌合戦)が催されることになり、まだ若い小式部内侍も歌人に抜擢されました。
公任の息子の定頼(995~1045)は、小式部内侍が歌作に困り、母の和泉式部に泣きつくと見たのでしょう。彼女をからかい、「母君からの代作の文はもう来ましたか」と聞いたところ、小式部内侍が即座に切り返して詠んだのがこの和歌です。
「大江山」と「いく野(生野)」は、都から丹後へ至る道中の地名で、「天の橋立」はご存じ、日本三景としても知られる丹後の名所。「いく野」の「いく」に「行く」を掛け、「ふみも見ず」の「ふみ」にも「踏み」と「文」を掛けています。
この技巧に定頼は舌を巻き、返歌もできなかったとか。意地悪な貴公子を実力で言い負かした、胸のすくエピソードです。
小式部内侍は母同様に恋多き女性で、道長の息子・教通の子を産んでいます。そのとき、道長は喜んで和歌を詠みました。「嫁の子の 子鼠いかが なりぬらん あなうつくしと 思ほゆるかな」(嫁が産んだ赤ん坊の子ネズミさんの様子はどうだ? 心から愛しく思えてね)です。
正式な結婚ではなかった小式部内侍を嫁と呼び、息子の婚外子を心から慈しんだのですから、道長の家族思いで優しい一面がうかがえますね。
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
有馬山の近く、猪名の地の笹原に風が吹くと、笹の音がそよそよ。ね、そうよ、それよ。あなたを忘れるものですか。
(大弐三位[藤原賢子])
賢子は紫式部と藤原宣孝の娘で、西暦1000年ごろに誕生し、治安3年(1023)には彰子のもとに女房として仕えていました。『後拾遺和歌集』によれば、疎遠になった恋人から「もう心変わりした?」と尋ねられた時の和歌です。
女房は姫君と違って表社会で働くため男性との出会いが多く、いきおい数多くの恋を経験します。賢子も、公任の息子・定頼をはじめ、彰子のいとこの源朝任(989~1034)、道長と明子の息子である頼宗(993~1065)、道長の兄・道兼の息子の兼隆(985~1053)などそうそうたる面々と恋をしました。
が、賢子は彼らの妻妾には収まらず、働き続けました。そして、兼隆の子を産んだときに東宮・敦良親王(のちの御朱雀天皇)の皇子の乳母となり、やがてその皇子が後冷泉天皇として即位したのちも、天皇に仕え続ける道を歩みます。
その献身的な勤めは高く評価され、賢子は女官として従三位の位を与えられる大出世を果たしました。
紫式部が手さぐりで主婦から物語作家となった一方、賢子はキャリアパーソンの道を邁進したのです。紫式部は一人娘の賢子に、母としての生き方を教え、女房としての心得も与え、守り導いたといえるでしょう。
番外編①②で紹介した人たちのほかにも、「光る君へ」の登場人物や近親者の和歌が「小倉百人一首」に選ばれています。どうぞ、それぞれの和歌を味わい、背景にも心を馳せてみて下さい。
中納言兼輔(紫式部の曽祖父・藤原兼輔)
清原深養父(清少納言の曽祖父)
平兼盛(赤染衛門の実父)
謙徳公(藤原伊尹。藤原兼家の兄、藤原行成の祖父)
藤原義孝(藤原行成の父)
藤原実方朝臣(清少納言の恋人)
藤原道信朝臣(藤原斉信の弟)
左京大夫道雅(藤原道雅。藤原伊周の息子)
権中納言定頼(藤原公任の息子)
※なお、百人一首の原形ともいわれる「百人秀歌」には、藤原定子の和歌(辞世)が入っています。
夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき
作品本文:『小倉百人一首』(角川書店 ビギナーズ・クラッシクス日本の古典)
『和泉式部集 和泉式部続集』(岩波書店 岩波文庫)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。