皇后定子が亡くなると「一帝二后」状態は解消され、中宮彰子が一条天皇のただ一人の正妻となりました。しかしその後も、天皇の心が彰子を向くことはありませんでした。彼の中には定子が生きていたのです。清少納言が書き続ける『枕草子』がそれを支えていたと考えられています。
定子の死は、近親者はもちろん貴族社会全体に大きな衝撃を与えました。
定子が亡くなった当日、藤原道長は怨霊に襲撃されたという妄想にかられました。そして、怨霊の正体は定子の父・道隆かと疑いました(コラム#28参照)。定子の生前に彼女を迫害したことを自覚していた道長は、罪悪感を抱いていたのでしょう。
一方、道長に忖度して定子を迫害したり、彰子のために尽力したりしていた貴族たちは、一転して定子に同情し始めます。かつて藤原行成は、彰子の中宮就任を後押しするため、定子が出家して神事ができないことを天皇に強く訴えました。
が、定子の崩御当日の日記(『権記』)に、行成は定子のことを「還俗(僧職をやめて一般人にもどった人)」と明記しました。定子が后としての務めを果たすことに、じつは何の支障もなかったことを認めたのです。
定子の死後、同年代の若者たちは強い無常観を抱いたのか、次々と出家しました。
道長の嫡妻・源倫子の甥で道長が養子としていた源成信(当時23歳)も、右大臣藤原顕光の長男・重家(当時25歳)とともに、定子の四十九日の直前に出家しました。成信は定子のサロンに出入りしていました。彼にとっても定子は“推し”であり、自ら定子の供養がしたかったのでしょう。
もっとも大きな衝撃を受けたのは、やはり一条天皇でした。天皇は死のケガレに触れてはならず、妻の葬儀に参列することもできません。定子が鳥辺野に葬られた日、彼は内裏で一人彼女を偲び和歌を詠みました。
野辺までに 心ひとつは 通へども わがみゆきとは 知らずやあるらん
定子、あなたの葬儀が行われる野辺に、天皇である私は行くことができない。でも心だけは一緒だ、そばにいるよ。今夜、その野辺に降り積もる深雪は、私の行幸なのだ。だが、あなたはもうそれも分からず眠っているのだね。
(『後拾遺和歌集』哀傷543番)
定子の皇子・敦康親王は、母の死後、その妹である四の君(道隆の四女・名は不明)が育てていました。一条天皇は親王に会いに通ううち彼女を見初め、深い関係になりました。定子に縁のある彼女を、定子の身代わりのように感じたのかもしれません。東三条院詮子や道長は驚き、四の君から親王を取り上げて彰子に育てさせました。
道長が彰子に敦康親王を育てさせた理由は、3つあります。
第1に、天皇と四の君が会う理由をなくすこと。第2に、親王を彰子のもとに置くことで天皇が通うようになり、彰子が子を授かりやすくなること。第3に、万が一彰子が皇子を産まなかった場合、東宮(次の天皇)になる敦康親王に対して、彰子は養母、道長は養祖父という関係を作っておくことです。
が、天皇の思いを止めることはできず、四の君は懐妊しました。ただ彼女も、長保4年(1002)6月、出産を待たず急死してしまいます。天皇は再び大きな打撃を受けました。その後も、道長の思惑とは裏腹に、天皇が彰子に心を向けることはありませんでした。
そんな中、一条天皇が密かに連絡を取っていた相手が、清少納言です。定子の死後、清少納言は夫の赴任先である摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)にいました。
『清少納言集』によれば、天皇はそこへ使いを寄越し、和歌を送っています。残念ながら文書が損傷しているため和歌の言葉ははっきりしませんが、定子なき都の寂しさを嘆く内容です。
清少納言は、「逃るれど 同じ難波の かたなれば いづれも何か 住吉の里」(悲しみから逃れて難波に来ましたが、どこにいてもつらい気持ちは変わりません)との和歌を返しました。天皇と清少納言は悲嘆を共有していたのです。
清少納言はやがて都に戻り、『枕草子』を書き進めてブログのように拡散させたと思われます。かつて長徳の政変のときは、定子の心を慰めるのが目的でした。しかし定子の死後は、彼女を偲びその魂を鎮めるとともに、人々の心に定子の記憶を刻み直すために書いたのです。
『枕草子』には、悲しいことは書かれていません。そこでは、美しく知的で優しい定子がいつも笑っています。『枕草子』を開けば、定子とその周辺の人々の姿がさまざまなエピソードとともに生き生きと立ち上がります。
定子の死後に貴族社会を覆った暗い世相を、『枕草子』は癒やしました。道長や貴族たちによる“いじめ”にはまったく触れていないので、彼らも心の重荷を下ろした気になったでしょう。深く傷ついていた天皇も、生きる意欲を取り戻すことができたでしょう。文学の力は偉大です。
ただこの状況は、道長にとって決して喜ばしいことではありません。やはり彰子に皇子を産んでほしい。そのためには、『枕草子』以上に天皇を引きつける作品が彰子のもとにあれば……。道長にそんな思いが膨らんでいきました。
彼が主婦作家・紫式部をスカウトし、彰子のもとに仕えさせるのは寛弘2年(1005)12月。定子が亡くなり、清少納言が宮中を去ってから5年が経っていました。
作品本文:『後拾遺和歌集』(岩波書店 新日本古典文学大系)
『清少納言集』(明治書院 和歌文学大系)
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。