ちょうとく4年(998)、ドラマでは、まひろ(紫式部)がふじわらの宣孝のぶたかとラブラブの新婚生活を始めました。ところが彼の無神経な言動が原因で、夫婦間に亀裂が入り、まひろが彼に香炉の灰を浴びせかけ宣孝の足が遠のく……という不穏な展開になっています。

この事件は、紫式部と宣孝の間に実際あった“けんか”にもとづいて描かれたのだろうと思います。ただ、真相はドラマのように深刻なものではなく、むしろ犬も食わないけんかだったとみてよいでしょう。

『紫式部集』によれば、これは長徳4年の正月、2人の結婚直前のできごとでした。けんかの発端は、宣孝が紫式部からの手紙を周囲に見せびらかしたことです。

宣孝は、娘ほども若い紫式部との恋仲が自慢だったのでしょう。恋文にのぞく彼女のさいの輝きが誇らしかったのかもしれません。が、この行動が紫式部のかんさわりました。彼女は使いをやり、宣孝のもとにあった自分の手紙を全部引き取っていったのです。

しかし当時、恋文の回収は絶交を意味しました。宣孝は、紫式部の剣幕に押されて返却に応じたものの、納得がいかなかったのでしょう、つむじを曲げてしまいます。それを聞いて、紫式部は和歌を送りました。

閉ぢたりし 上のうすら けながら さは絶えねとや 山の下水したみず

氷に閉ざされていた山は表面の薄氷がやっと溶けたというのに、じゃあ途絶えてもいいのね?この流れが。やっと打ち解けた私たちだけれど、もう切れてもいいってこと?

(『紫式部集』32番)

和歌の意味は「そんなにすねるなら、本当に絶交するから」とおどしているようですが、本気ではありません。和歌を送ること自体が仲直りの意思表示なのです。

過去を振り返れば、二人が交わした最初の恋文で、紫式部は自分を霊峰白山はくさんの溶けない雪にたとえました(コラム#23参照)。この和歌はその喩えを再び持ち出し、氷は溶けたと言っています。紫式部は二人のなれそめとこれまでの歩みを、彼に思い出させているのです。

それにしても、紫式部は手紙を回収し彼との関係をいったん清算したのに、なぜ自分から和歌を送ったのでしょう。現代ならば、けんかして彼のSNSをブロックした彼女が、再びブロック解除してコミュニケーションを再開したという感じでしょうか。

たぶん、紫式部は自分が主導権を握るかたちで交際を再スタートさせたかったのではないでしょうか。であれば、まさにツンデレですね。

その日の夕刻、宣孝から返歌がありました。

東風こちかぜに 解くるばかりを 底見ゆる いしの水は 絶えば絶えなむ

春風でちょっと氷が融けたくらいのことさ。石の間の底の見える水たまりほどに浅い縁なら、絶えればいい。しょせんその程度の仲だろう?

(『紫式部集』33番)

これも、言葉通りに受け取ってはいけません。彼は紫式部の和歌に、和歌で返してくれたのです。しかも同じような言葉を使って。宣孝の手紙には「もう口もきかない」とまで書き添えられていましたが、彼は関係修復に応じたのです。

紫式部は余裕しゃくしゃくに笑って、さらに返歌しました。

言ひ絶えば さこそは絶えめ 何かその みはらの池を つつみしもせむ

絶交ならそれもいいわね。どうしてあなたの“みはらの池”ならぬ“お腹立ち”に遠慮などいたしましょう。

(『紫式部集』34番)

宣孝からは夜中ごろにまた返事がありました。

たけからぬ 人数なみは わきかへり みはらの池に 立てどかひ無し

ろくでもない、人の数にも入らぬ私だからな。心に波がわきかえるほど腹を立てても仕方がないさ。あなたには負けました。

(『紫式部集』35番)

ついに降参、という和歌です。すでに妻が3人もいて恋上手なはずの中年男・宣孝ですが、娘ほども年の違う紫式部に負かされ、怒ることすら諦めたのです。彼の和歌からは、この言い合いを楽しんだニュアンスさえ感じられます。

ドラマでも、宣孝がまひろをわざと怒らせたり、彼女に叱られるのを楽しんだりする場面が幾度もありました。そんなドラマ上の関係は、もしかしたら真実に近かったのかもしれません。

なお、まひろが宣孝に香炉の灰を浴びせるシーンは、『源氏物語』にる創作でしょう。物語の登場人物である髭黒ひげくろ大将が若い女性・たまかずらに夢中になり、それに悩んだ髭黒の妻が心を病み、まひろと同じ暴挙に出てしまうのです。このくだりは『源氏物語』の名場面として知られています。

ともあれ紫式部と宣孝の結婚は、こうしたやりとりを経た長徳4年晩春のことでした。そのときに宣孝がんだと思われる和歌が、『紫式部集』に記されています。

峯寒みねさむみ 岩間こほれる 谷水の 行く末しもぞ 深くなるらむ

峰が寒くて凍り付いた岩間の渓流も、下流に行けば深い大河となる。私たちも同じだ。幾久しく深い縁で結ばれた夫婦になろう。

(『紫式部集』76番)

『紫式部集』は、おそらく紫式部が最晩年に自分の人生を振り返って編集したもので、和歌による自分史と言えます。すべてが過去になったとき、紫式部にとって宣孝と暮らした日々は、けんかまでもが大切な思い出と感じられたのでしょう。

宣孝は、才女の紫式部を受け入れ、楽しみ、周囲に妻を自慢して回った、おおらかで人間味のある夫でした。が、彼が「行く末深く」と約束した結婚生活は、宣孝の死によって長くは続きませんでした。この悲劇が紫式部を“人生の無常”と向き合わせ、その後『源氏物語』執筆を促すことになるのです。

 

引用本文:『紫式部集』(新潮社 新潮日本古典集成)

 

 

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。