越前えちぜんこくで、宋人そうじんと在庁官人とのトラブルが発生——。実際にこの頃、宋の商人の一人・ヂュレンツォンわかさのかみを侮辱して罪に問われるなど、北陸では騒動が起きていました。宋人から朝廷に異国の動物が贈られたことも史実です。

なお、この動物(史実ではガチョウと羊)は、翌年宋人たちに返されました。紫式部(まひろ)の父・ふじわらの為時ためときは、大国たいこく越前えちぜんのかみとして外交の駆け引きの最前線に立っていたと言えます。

さて、紫式部はちょうとく3年(997)年明け、遠縁の藤原宣孝のぶたかから求婚されました。彼の息子が紫式部とほぼ同年で、宣孝と紫式部とは父と娘ほど歳の差がありました。すでにちゃくさい(正妻)と2人のしょうを持つほか、紫式部と並行してさらに別の女性にも言い寄っており、その恋マメな性格はまるで“プチ光源氏”でした。

紫式部は自作の和歌集『紫式部集』に、彼との恋のいきさつを記しています。

それによれば、宣孝は京から、越前の紫式部に恋文を寄越してきました。表向きは「中国人を見に行きたい」という内容。しかし続けて「春にはけるもの」という謎かけのような言葉が書きつけてあります。

これは、中国の書『らい』の「月令がつりょう」(月々の儀式などを記した章)にある「孟春之月……東風解凍(初春になると、東風が氷を解かす)」から引かれた言葉。ただ宣孝はここに、「春は氷も解ける季節。冷たく固いあなたの心も同じ――春だから、あなたは私を好きになる」という意味を込めたのです。いかにも恋の経験豊富な宣孝、自信満々です。

これに対する紫式部の返歌は、次のとおりでした。

春なれど しらゆき いや積もり くべきほどの いつとなきかな

確かに春ですけれど、こちら越前の白山はくさんは深い雪がますます降り積もって、解けるときなどありませんのよ。おあいにく様。

(『紫式部集』28番)

自分の心を越前の霊峰白山の雪になぞらえ、宣孝には決してなびかないと肘鉄ひじてつを食わせる和歌です。『きん和歌集』には、「白山の名は夏でも解けない雪にちなんでいる」まれています。宣孝の『礼記』に対し、紫式部は『古今和歌集』で立ち向かうという教養対決でもありました。

平安時代前期の歌人・おおし河内こうちのつね「消え果つる 時し無ければ 越路なる 白山の名は 雪にぞありける」

 

ただ、これは本当の拒絶ではありません。当時、男性からのふみに心が動かなければ、女性は無視して返事さえしません。返歌を送った紫式部には、宣孝への思いが芽生めばえていたのです。

ところがそこへ、宣孝が近江おうみのかみの娘にも声をかけているといううわさが。文では「ふたごころなし(あなただけだ)」と言い続けているのにと、紫式部は怒りました。

湖に 友呼ぶどり ことならば 八十やそみなとに 声絶えなせそ

近江の湖でお友達を呼んでいる千鳥さん。そう、あなたのことよ。同じことなら、そこらじゅうの港で誰にでも声をかけまくればいいわ。どうぞ、お好きなように。

(『紫式部集』29番)

宣孝浮気の情報にいらだつ紫式部は、もう彼に半分心を持っていかれているといってよいでしょう。

やがて宣孝から来た文は、不思議なものでした。開くと、紙に朱墨しゅずみがぽつぽつと降りかけられているのです。横には「涙の色を」という一言がありました。これは漢文独特の言い回し「血涙」「紅涙」に寄っていて、涙が尽きるほど泣いて流した血の涙のことです。

長徳2年(996)に為時が朝廷に提出した申し文にも、「苦学の寒夜、紅涙こうるいえりうるおす(苦学した寒い夜、血の涙が襟を濡らした)」(コラム#20参照)とありました。宣孝は「あなたを想って泣き尽くした私の血の涙の色を見てくれ」というのです。

紫式部は返事の和歌を詠みました。

くれないの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば

紅の涙はイヤ。だって、赤色はすぐにせて色が変わるでしょう?  この色があなたの心変わりを表しているように見えるもの。

(『紫式部集』31番)

いつまでも変わらぬ心で愛してほしい。紫式部は、彼に自分の気持ちを素直に告げたのです。

『紫式部集』のこの和歌には、紫式部自身が記した注記があり「彼はもとより立派な家の娘を妻にしている人だったのだ」と書かれています。宣孝のさいしょうには、中納言藤原朝成あさひらの娘のように身分の高い女性もいました。そうした彼の妾の一人になって、ほかの妻妾と張り合うことに心の隅では引け目を感じつつも、紫式部は結婚を決意したのです。

宣孝は、紫式部のおかたい父・為時とはまったく違ったタイプの男性でした。財力があり、世慣れていて、女性にもてる――加えて彼の魅力は、紫式部の個性を認める包容力にもあったと思います。

漢籍『礼記』や漢文表現「血涙」をもじった彼の遊び心の中に、紫式部の漢文趣味をくすぐる工夫がうかがえるからです。結婚後も、彼は漢文の書物を持って紫式部宅を訪れていました。

紫式部は幼い頃、漢文を上手に覚えたのに、父から「お前が男でないのが私の不運だ」となげかれました(ドラマ第1回)。しかし宣孝は、紫式部の漢文好きも含め、彼女を丸ごと受け入れてくれる夫だったのです。

 

引用本文:『紫式部集』(新潮社 新潮日本古典集成)

 

 

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。