第17回の関白かんぱくふじわらの道隆みちたかの死に続いて、今回、道兼みちかねまでが亡くなりました。念願の関白職を手にしたにもかかわらず、実際に働くことは1日もなく他界したことから、“七日関白”と呼ばれた道兼はどんなに無念だったことでしょう。

ちょうとく元年(995)4月27日に関白就任が決定し、5月2日に天皇に挨拶あいさつごんじょうをしたとき、道兼はすでにえきびょうにかかっていたようです。ドラマでは、道兼が天皇に拝謁はいえつした直後に倒れる様子が描かれましたが、この場面は歴史物語『おおかがみ』の「道兼」にならったものです。

道兼は体調の悪さをこらえつつだいに参ったものの、その場で病状が急変してしまいます。苦しくて立つことができなくなり、とものものの肩を借りて出ていくのをぎょうたちは驚きと不安が入り混じった面持ちで見送りました。症状は牛車ぎっしゃの中でさらに悪化し、家に着いたときにはかんむりがだらしなく傾き、しょうぞくひもを自らほどいた姿で降りてきたとのことです。

そんな中、彼の回復を信じた人もいました。『えい物語』(巻四)は、藤原道長みちながが毎日見舞いに訪れ、治療などの諸事をしたとしています。この歴史物語によれば、道長は兄の回復を信じ、あくまでもその政権を支えていこうと考えていたようです。

一方『大鏡』には、藤原実資さねすけが道兼邸を訪れたことが記されています。当初、実資の用件は見舞いではなく、関白就任祝いでした。ところが道兼は寝所に横になったままで、実資を次の間に呼び入れると御簾みす越しに言いました。

「乱れ心地、いとあやしうはべりて、外にはえまかり出でねば、かくて申しはべるなり」

「病気で具合が妙に悪く、寝所の外に出られないので、ここで失礼させていただく」

(『大鏡』「道兼」)

道兼は実資にそれまで疎遠だったことを謝り、「関白になったからには、いろいろと腹を割って相談したい」と言いますが、息が荒く言葉が続きません。そのとき風で御簾が翻ったため、実資が隙間からのぞくと、道兼は顔色も悪く平素の威厳とは打って変わって見えたといいます。

「ことのほかに不覚になりたまひにけりと見えながら、長かるべきことどものたまひしなむ、あはれなりし」

「もう手の施しようがないと見えるのに、本人は遠い先々のことなどを口にされるから、哀れだった」

(同上)

道兼は病床で、関白として手腕を振るう構想をっていたのです。実資はこの思い出を胸にしまっていましたが、のちに人にもららしたということです。


時はさかのぼりますが、内裏で公卿たちが道兼の発病を目撃したとき、彼らの胸中にいたのは、純粋な驚きというより、予感が的中した「やっぱり!」という思いと「ここまできたか!」という恐怖だったでしょう。

この年の春以降、だいごん以上の公卿に疫病の犠牲者が相次いでいたからです。毎年の閣僚人事を記した公文書『公卿補任』で確認してみましょう。

表のように、晩春の3月から晩夏の6月(ともに旧暦)にかけて、関白からごん大納言までの上席公卿8人のうち6人までが死亡。死因は道隆以外、疫病でした。

席次第2位の左大臣で、みなもとの雅信まさのぶ亡きあと源氏の最長老だった重信しげのぶは、道兼と同じ5月8日に亡くなりました。また大納言の藤原朝光あさみつ済時なりときは、『大鏡』によれば道隆の飲み友達でした。道隆は死の床で「あいつらとも極楽で会えるかなあ」と言ったとか。冗談がまことになったとは、洒落しゃれにもなりません。

さらに、権大納言の藤原道頼はまだ25歳の若さでした。彼は道隆の息子で、伊周これちかの異母兄です。祖父の兼家かねいえが生前わいがって養子にし、なかの関白かんぱく(道隆の家)を助ける存在として『まくらのそう』にも登場しています。彼をうしなうことは、伊周・定子ら中関白家にとって大きな痛手だったでしょう。

表の人々のほかには、中納言の源保光やすみつが5月9日に亡くなっています(下図右上)。保光は藤原ゆきなりの母方の祖父です。行成はもともと父方が藤原本流の血統で、道長をしのぐ貴公子であるはずでした。が、摂政だった父方の祖父(藤原伊尹これただ)は行成が生まれた年に亡くなり、父(義孝よしたか)も行成が3歳の時に、疱瘡ほうそうにより20歳で亡くなってしまいました。

そのため、行成は母方の祖父である保光に支えられて生きてきたのですが、今回の疫病でその祖父すら喪いました。行成は疫病によって次々と大切な人を亡くしたのです。

道兼が世を去った3日後、道長は関白の主要業務である内覧(天皇に先立って公文書に目を通す業務)を行うよう命ぜられました。道長・伊周を除く大納言以上の公卿が死に絶えていたためですが、当時、道長は席次第7位(権大納言)で大臣経験はありません。

かたや伊周は席次第4位の内大臣で、内覧もすでに担当していました。伊周に「我こそ!」という自負もあったでしょう。この2人の“一騎討ち”を、世の中がかたを飲んで見守ったことは想像にかたくありません。

道長は、やがて平安時代最強の権力者として栄花を誇ることになります。しかし、その船出は実際、の危機の連続で不安定なものだったと見てよいでしょう。

 

引用本文:『大鏡』(小学館 新編日本古典文学全集)

 

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。