第14回、豪腕政治家として名をせた藤原ふじわらの兼家かねいえが、ついにこの世を去りました。そしてラストシーン。一条いちじょう天皇の御前で、摂政せっしょうとなった藤原道隆みちたかは「定子を中宮ちゅうぐうに!」と提案。反対派のぎょうたちが驚くなか、一条天皇も「ちんは定子を中宮にする」と受け入れて、道隆の独裁が始まります。

中宮とは律令制で定められた「天皇のちゃくさい(正妻)」です。別名を皇后こうごうとも言います。

『源氏物語』の冒頭、
「いづれの御時おんときにか、女御にょうご更衣こういあまたさぶらひたまひけるなかに……(いつの帝の御代みよにか、女御や更衣たちが何人もひしめいていらっしゃったなかに……)」
とあるように、平安時代の天皇は何人もの妻を持っていました。

また、妻たちには女御や更衣などの称号がありましたが、女御や更衣はいわゆる側室です。天皇の正妻であると国家が認めたのは、中宮だけでした。

男性貴族は、たとえ摂政・関白かんぱくや大臣であっても天皇に仕える臣下の人間で、天皇家の一員になることはできません。ところが天皇の妻は、天皇家の出身ではなくても中宮になると皇族の仲間入りをし、天皇の血を分けた親王や内親王と同じように「宮」と呼ばれました。

中宮は国家のための神事など役割を負っていて、その遂行のために「中宮職ちゅうぐうしき」という国家機関が設けられ、事務に当たりました。また中宮には、官人たちに官位や官職をたまう独自の人事権も与えられました。この力は大きく、恩恵に預かろうと官人たちが集まりました。

つまり、他の妻とは別格の高貴さと政治・経済にわたる絶大な権力を持つのが、中宮だったのです。

天皇の妻が中宮に立つことを「立后りっこう」といい、妻当人にとってはもちろん、実家の父や兄弟にとっても圧倒的な名誉でした。さらに、中宮は地位を保証されていました。天皇の地位からも独立していて、夫だった天皇が退位しても崩御しても、中宮が退位することはなかったのです。

新しい中宮(皇后)が決まると、それまでの中宮は皇太后こうたいごうへ、皇太后は太皇太后たいこうたいごうへと、ところてん式に地位を転じて、呼び名も変わりました。が、地位を剥奪はくだつされることは、原則として亡くなるまでありませんでした。

こうした特殊な制度に加えて、天皇の母は中宮を経なくても皇太后に“横入り”できるというならわしもあり、一条天皇の時代には、3つの座は満杯状態でした。(下表・道隆以前参照)

中宮(皇后)は、前々代の円融えんゆう天皇(一条天皇の父)の妻だった遵子、皇太后は今上きんじょう・一条天皇の母である詮子(中宮を経ず皇太后に)、太皇太后は円融天皇のさらに前代の冷泉れいぜい天皇の妻だった昌子で、これ以上誰かが入れる余地はなかったのです。

そこで、道隆はアクロバット的な方法に出ました。すでに遵子がいている地位を「中宮」と「皇后」に2分割し、定子を中宮に立てる、というものです。

たとえば、現在の総理大臣には「首相」という別名があります。これを利用して、総理大臣は総理大臣のままで、新たに別の人を首相に立てることになったらいかがでしょう。道隆はそれに近いことを行ったのです。

このときさんとして公卿の一員になっていた藤原実資さねすけは、日記に「驚きあやしむこと少なからず」(『しょうゆう正暦しょうりゃく元年[990]9月27日)と記しました。前代未聞のやり方に、強い違和感を覚えたのです。

道隆の政権は、このように道隆一家に都合のよい政策ばかりを強行に進め、先例をやぶることが少なくありませんでした。そのため、華やかな外見とは裏腹に人心を失っていくことになったのです。藤原道長みちながは、おそらくこうした道隆を批判的な目で観察していたと思われます。

定子が中宮になると、道隆は道長を中宮大夫だいぶ(中宮職の長官)に就けて、道隆一家の味方に取り込もうとくわだてました。しかし道長は、父・兼家の喪中であることを理由に、定子の立后の儀式に参加しませんでした。道隆への異議申し立てと見てよいでしょう。

一方、道長のもとでは、倫子が永延えいえん2年(988)に産んだ長女の彰子がすくすくと育っていました。定子の立后式から2か月あまりが経った12月、道長は3歳の彰子の「着袴ちゃっこ」の式をり行い、公卿たちを招きました。

着袴は幼い子どもが初めてはかまを着ける儀式で、子どもの存在を貴族社会に知らせるチャンスです。実資も招かれましたが、ちょっとした行き違いから欠席したところ、翌日、だいで公卿の一人に耳打ちされました。

「昨日の着袴の式で、祖父君のみなもとの雅信まさのぶ様と父君の藤原道長様が、あなたが来ないのを不審がっていましたよ」

なぜ儀式をすっぽかしたのかと、しきりに怪しんでいたというのです。

道長はさておき、左大臣である源雅信の不興を買うことは、実資にとって大失敗でした。実資はあわてて、翌朝、内裏への出勤前に土御門つちみかど邸を訪れて頭を下げたということです(『小右記』正暦元年12月25~27日)。

道長は、兄・道隆や姪の中宮・定子と距離を置きつつ、自分の家をアピールし始めていたのです。その最大の武器が彰子。後ろを固めていたのが、しゅうとの雅信、しゅうとめの穆子、妻の倫子でした。彰子が実際に一条天皇に入内するのは9年後、長保ちょうほう元年(999)のことです。

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。