藤原兼家の娘・詮子(962~1001)が嫁いだ円融天皇(959~991)は、外戚(母方の親戚)の藤原氏に翻弄された天皇でした。天皇は15歳で、伯父*の関白・藤原兼通の娘・媓子と最初の結婚をしましたが、媓子は12歳年上の27歳でした。さらに兼通は媓子を中宮とし、媓子に皇子を産ませるよう天皇にプレッシャーをかけました。*…円融天皇の母は、兼通の妹・安子。序の巻(3)参照
中宮とは天皇の正妻のことで、別名を皇后とも言います。平安時代、ほとんどの天皇には多くの妻がいましたが、律令制での正妻は中宮だけで、他の女御や更衣などと呼ばれる女性は側室にあたります。中宮は皇族の一員で「宮」と呼ばれ、押しも押されもせぬ存在でした。兼通は娘をいち早くその座に就けて、他の貴族を牽制したのです。
ところが、兼通は媓子入内の4年後に死亡。媓子が後ろ盾を失ったと見ると、新関白・藤原頼忠と、政界第三位の右大臣となった兼家は、すかさず娘を入内させました(下図)。頼忠の娘の遵子(22歳)は天元元(978)年4月、兼家の娘の詮子(17歳)は4カ月遅れて8月の入内です。すると翌年、媓子が33歳で亡くなってしまいます。これは何かの偶然なのでしょうか。
媓子の死によって中宮は空席となり、2人の女御・遵子と詮子が火花を散らす形になりました。そんな中で懐仁親王(のちの一条天皇)を産む快挙を果たしたのが、詮子です。帝22歳にして初めての子、しかも皇子。ときに東宮 (皇太子)には甥の師貞親王が就いており、跡継ぎが生まれなければ自分の皇統が絶えてしまうおそれのあった円融天皇は、安堵の息をついたことでしょう(下図)。
にもかかわらず、やがて天皇が中宮に立てたのは遵子でした。父・頼忠の関白の地位を尊重し、詮子と懐仁親王を擁する右大臣・兼家の増長を抑える意図と考えられています。青年天皇は藤原氏同士の勢力争いを調整し、自らが主導権を握ろうとしたのかもしれません。
当然、詮子は激しい衝撃を受けました。和歌集『円融院御集』には、詮子が天皇におくった悲痛な和歌が載っています。
(雨模様のなか、わざわざ私を訪ねてくれる人もおりません。死ぬよりひどい有様で生きているこの身が嘆かわしいこと)
平安時代始まって以来、同じ藤原氏出身の女御が中宮の座を争い、子のある女御が子の無い女御に負けた例は皆無でした。詮子の敗北は前代未聞の屈辱だったのです。詮子の歌に対し、天皇から返歌はありましたが、残念ながら史料が破損し、歌そのものは伝わっていません。
一方、頼忠・遵子側は大喜びです。歴史物語『大鏡』には、遵子の弟・藤原公任の勇み足の逸話が記されています。公任は中宮遵子が内裏に向かう行列に随い、兼家と詮子の御殿・東三条殿の前を通りかかると、門内に向かってこう言ったというのです。
「この御殿の女御様は、いつ中宮に立たれるのかな?」
さすがに苛立った兼家一家でしたが、「なに、こちらには親王がいる」と気を取りなおしたとか。
じつは、これは作り話で、実際には遵子の行列は東三条殿の前を避け、別ルートを取っていました(『小右記』当日)。とはいえ、浮かれる頼忠・公任一家に対して、兼家一家が冷静を保ちつつ対抗手段を執ったことは事実です。
兼家は、詮子ともども懐仁親王を実家に引き取り、天皇に会わせませんでした。加えて政治をボイコット、息子たちにも天皇に非協力の態度を取らせました(『栄花物語』巻二)。兼家は賭けに出たのです。
もし、この状態で遵子が皇子を産めば、その時は負け。次男とはいえ母が中宮である以上、天皇後継競争で懐仁親王に勝ち目はないでしょう。しかし、遵子に懐妊の兆しは見えませんでした。
加えて、円融天皇に病気の症状が現れました。大河ドラマでは兼家が食膳に毒を盛ったとしていますが、それはともかく、健康が損なわれたことは藤原実資の日記『小右記』に書かれている事実です。
たった一人の子・懐仁親王に会えず、政治も滞り、自分の健康状態も不安となって、円融天皇はついに音を上げました。自分が退位し、東宮・師貞親王を次の天皇(花山天皇)にして、空いた東宮の席に懐仁親王を就けることを決めたのです。
2年後、花山天皇が早くも退位し、懐仁親王(一条天皇)が天皇に即位すると、詮子は天皇の母として皇太后の位に就きます。皇太后は中宮の上席です。 詮子は夫ではなく息子によって皇族となり、遵子を超えたのでした。
なお『源氏物語』には、明らかに詮子をモデルとしたと思われる人物「弘徽殿の女御」が登場します。弘徽殿の女御は右大臣の娘で、桐壷帝の妻です。が、桐壷帝が中宮としたのは藤壺で、弘徽殿は激しく動揺しました。世間も帝の措置を穏やかならぬことと思ったと記されています。
しかし、失意はむしろ弘徽殿の女御をパワーアップさせます。息子・朱雀帝が即位すると皇太后となり、父をもしのぐほどの権力を振るい、息子の世を牛耳ったのです。
では、大河ドラマの詮子はこの後どう振る舞うのか。それは放送をお楽しみに。
●紫式部は、実際に五節舞姫を務めたのか?
ところでラストシーン、舞姫を務めた主人公のまひろが倒れてしまいました。豊明節会で、気が遠くなり運ばれる舞姫――これは、史実としては紫式部自身の体験ではなく、じつは彼女の目撃談として『紫式部日記』にある出来事です。
寛弘5(1008)年、すでに中宮彰子の女房となっていた紫式部は、主人のお供で豊明節会の試楽(リハーサル)を見ていました。すると、一人の舞姫が緊張のあまり倒れてしまいます。紫式部は驚き、茫然として見守るだけだったと記しています(『紫式部日記』同年11月21日)。
貴族階級の少女たちは、ふだんは滅多に家族・友人以外の人の前には出ません。しかし舞姫は、天皇、公卿、殿上人(御所に上がることのできる上級官僚)を始め、大勢の男性の目にさらされました。
ちなみに『源氏物語』には、光源氏の息子・夕霧が豊明節会で五節舞姫を見初め、恋文を贈るエピソードがあります。その舞姫は光源氏の乳兄弟・惟光の娘(藤典侍)で、内裏に女官として仕え、やがて夕霧の側室となりました。
中流以下の貴族の娘にとって、五節舞姫になることは社交界への華々しいデビューでもあったのです。ただ、紫式部は内弁慶で、「私だったらとても無理」と日記に記していますので、娘時代に舞姫を経験したことはなかったでしょう。
(出典)
『円融院御集』…新編国歌大観
『大鏡』…新編日本古典文学全集
京都先端科学大学人文学部歴史文化学科教授。平安文学研究者。紫式部とその作品、また時代背景を研究している。1960年、石川県金沢市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』でサントリー学芸賞受賞。2015年、『平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む』で古代歴史文化賞受賞。著書は受賞作のほか、『紫式部ひとり語り』(2020年)など多数。近著に『道長ものがたり』(2023年)。