NHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」は、公共放送としてのNHKならではの、きわめて価値のある番組だったと思う。

23歳の若さでプリンストン大学で博士号を取得し、その後京都大学数理解析研究所の教授として研究を続けてきた天才、望月新一さんの難解な「宇宙際タイヒミュラー理論」に真正面から取り組んだ。現在進行形の数学界の息吹を、緻密なリサーチと巧みな構成で描いた、画期的な番組であった。

数学界においてきわめて重要視されている「abc予想」。数の間の「たし算」と「かけ算」の関係についてのこの予想を、望月教授は自身の理論で「証明」したと主張しており、賛同する数学者も多い。

一方で、望月理論があまりにも斬新で、現代数学の原理原則を打ち破るようなものであるため、反対している数学者もまた多く、いわば、現代数学界が二分されるかたちになっている。

なぜ、望月理論はそこまでの論争を巻き起こしているのか? 番組は、数学において「かけ算は簡単でたし算は難しい」という理屈を、「遺伝子」という例えを使ってわかりやすく伝えるところから始める。

そして、19世紀から20世紀にかけて活躍した偉大な数学者、アンリ・ポアンカレの「数学とは異なるものを同じと見なす技術である」という卓見を紹介する。

望月理論は、数学の発展を支えてきたポアンカレの考え方と真逆な発想に基づいている。すなわち、「同じと見なせるものが、同じでありながら同時に異なる」ことを考えることで、abc予想も解決できるし、新しい数学も生まれると望月教授は考えているのである。

望月教授と二人だけのセミナーを続けてきた東京工業大学の加藤文元教授は、望月理論をめぐる議論は、現代数学が次のステージに行くために必要な、対象に関する認識論がポイントになっているとする。

果たして、望月教授の「宇宙際タイヒミュラー理論」は数学界をどのように変えていくのか、番組のもたらす知的興奮は最高潮に達する。これだけ難解な内容を、番組は、さまざまな工夫をこらしてわかりやすく伝えようとする。

「これ以上楽しいことはない」というように話す数学者たちの浮世離れした表情は、数式以上に視聴者にとっての貴重な「情報」となることだろう。数学者たちに「別の惑星から来た論文のようだ」と評されたあまりにも斬新な望月理論。

ご本人の取材はできなかったという制約の中で、「火元責任者望月新一」と書かれた教授室の入り口の様子や、30歳でフィールズ賞を受けた天才、ボン大学のペーター・ショルツ教授と望月教授が激論を交わした京都大学の部屋を映すなど、さまざまな工夫で臨場感を演出していた。

日本の科学技術や研究力について懸念される報道が見られる昨今。このような番組が、特に子どもたちや若い世代が数学に興味を持つきっかけになるとすれば、その意義は極めて大きい。人間の脳は、わからないからこそ憧れるという側面を持つのだ。

1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究。文芸評論、美術評論などにも取り組む。NHKでは、〈プロフェッショナル 仕事の流儀〉キャスターほか、多くの番組に出演。