現実は、複雑である。
簡単には割り切れないありさまをじっくりと伝えるのは、志と技術が必要とされることである。そんな番組を見た。
NHKスペシャル『混迷の世紀 第10回 台頭する“第3極” インドの衝撃を追う』(7月16日放送)は、世界秩序の中でのインドの台頭という歴史的事件を、その背後にあるさまざまな事情とともに立体的に描いた好番組だった。
日本の平均年齢は48.7歳、中国が38.5歳なのに対して、インドは27.9歳。国としての圧倒的な若さを背景に、過去10年間、平均して6.6%の経済成長を遂げてきたインド。
番組は、まずは、インドから世界的なIT企業のトップが輩出していることを描く。一人ひとりの活躍だけでなく、「横のつながり」も深いと伝える。トップ同士が知り合いであることから、投資家同士が結ばれる「生態系」も生まれてくる。
今の日本の状況に照らし合わせても興味深かったのは、指紋や虹彩などの生体情報を活用した、インドの個人IDシステムだった。政府が主導して、オンライン決済などに活かされているのだという。
結果として、農村の生活が変わった。収入が1.8倍になった人、自転車からバイクへ乗り換えた人のケースが紹介される。さらに重要なことに、これまで身分証明書がなくて縁遠かった人たちが、銀行の口座を持てるようになった。画面から伝わってくる人々の生活の変貌ぶりに胸を揺さぶられる。
長年にわたってこのような取材を続けてきた公共放送ならではの番組構成として、2007年に放送されたNHKスペシャル、『インドの衝撃 第一回 湧き上がる頭脳パワー』の映像も引用される。勉強に励み、収入を増やし、貧困から脱出するという、かつての日本の来たはずの道をインドの若者がたどっている姿に心を動かされるとともに、重層的な歴史認識が生まれてくる。
インドの発展を伝えるだけならば、通常のニュース番組でも可能かもしれない。NHKスペシャルという長尺のフォーマットだからこそできることがある。
番組は、かつて植民地支配されたインドが、デジタルインフラを欧米の企業任せにせず、独自開発するという強い意志を持っていたことを伝える。プラットフォームを欧米の有力企業におさえられる「デジタル植民地」にはなるまいというインドの矜持は、日本にとっても他人事ではないはずだ。
もちろん、個人IDの普及にはプライバシーの問題も関係してくる。97歳の弁護士が政府方針に対して異議を唱える姿からは、民主主義国としてのインドの健全な一面が見えてくる。ものごとは常に単純ではないのだ。
最近、揺れ動く国際情勢の中で独自路線が注目されているインド。在任9年のモディ首相の下、兵器の国産化が進み、2030年をめどに防衛の自立を目指しているという。これからの産業の根幹である半導体においても、工場への大規模投資とそれに伴って必要な発電所、国際空港の整備を進めるインド。半導体製造会社のCEOとして迎えられた米国人は、かつては日本でも働いていた。
河野憲治キャスターのシンガポール取材の映像を交え、多角的、立体的にインドの台頭を伝える49分間。グローバルサウスと呼ばれる国々のリーダーとなり、アフリカ諸国などに独自開発の個人IDシステムを提供するインドの姿は、ともすればこれからの道筋に迷いがちな私たち日本の視聴者にも、大いに参考になる内容だったと思う。
日本は、単独ではもはや大国ではないかもしれない。だからこそ、アメリカ、中国、インドといった人口的にも経済的にも存在感を誇る国々の動向に注意を向ける必要がある。映画の世界でも数々のヒット作を生み出し、教育やITの分野でも注目されるインドの姿を、もっと知りたいと思う。もっとインドと日本はつながって良い。番組は一つのきっかけになるはずだ。
映像からは、こうやって言葉で表したのでは伝わりきれないさまざまなメッセージがあふれ出す。そこには、活字や断片的な情報だけでは捉えきれない立体的なイメージがある。ある程度の尺を持って対象を掘り下げていくNHKスペシャルのような番組のフォーマットが持つ可能性を改めて感じさせる、見ごたえのある放送だった。
1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究。文芸評論、美術評論などにも取り組む。NHKでは、〈プロフェッショナル 仕事の流儀〉キャスターほか、多くの番組に出演。