世界的なエネルギー不足で、物価が上がっている。一部の国、地域では、「食料か暖房か」という苦しい二択を迫られている方々もいるという。いったい、世界はどうなってしまうのか。不安になっている人も多いだろう。そんな視聴者の興味を惹く、経済から見た世界の未来の地図を描く好番組があった。
「BS1スペシャル 欲望の資本主義2023 逆転のトライアングルに賭ける時<前編>」。1月1日に放送された。新年の幕開けにふさわしい企画だったと言えるだろう。
番組では、マリアナ・マッツカート 、フィリップ・アギヨン 、ダニー・ドーリング 、ウィリアム・マグヌソン 、エマニュエル・トッド、ジャック・アタリなどの世界の識者にインタビューして、現代の世界が抱える問題点を立体的に浮き彫りにしていた。同時に、日本国内の課題についても、深堀りして現状の核心に迫っていた。
今、世界を見ると、一番気になる問題の一つは広がりつつある「格差」の問題であろう。
番組では、経営者などが先に豊かになってその富が次第に一般の人まで降りてくる「トリクルダウン」に対して、むしろ富が豊かな人にさらに集中してしまう「トリクルアップ」の現象が懸念されていると論じる。そして、「トップ10%」や「トップ1%」への上昇のレースから脱落しないための競争が激化しているという。これは、日本社会でもまさに感じられている時代の「空気」であろう。
ロシアのウクライナ侵攻の影響もあって、世界的にエネルギー価格を中心に物価が上昇し、生活が苦しくなる人が増えている。資源をめぐる覇権争いが起こる中、ロシアは、金融制裁や経済制裁を乗り越えることができると自信を持っているのではないか、アメリカを中心とする世界秩序に風穴を開けようとねらっているのではないかと識者は論じる。
モノからコト、コトからトキの消費へと経済が移っているという論調がある中で、むしろ今日の世界は一部ではモノへの回帰が起こっているという指摘は鋭かった。
世界的に物価が上がる中、どうやってインフレを抑えるか。かつては、金本位制をとることで物価の上昇を抑える「アンカー」(錨)を実現していたのが、金本位制を離れた今では各国の中央銀行が「インフレターゲット」を設けるようになった。日本ももちろん例外ではない。
アメリカのフォードが大量生産を確立すると同時に、労働者の賃金を上げた事例を紹介しつつ、十分な賃上げがないと労働者がやる気をなくして、労働の質を下げてしまうという指摘は心に響いた。物価が十分に上がらないと、企業側は量を減らしたり質を下げたりする「シュリンクフレーション」が起こるという議論は、特に日本において懸念される。
世界的な潮流を受けて、番組では「失われた30年」に苦しむ日本の現状を分析する。東京大学経済学部教授の渡辺努を始めとする論者の主張は聞き応えがあった。日本でもインフレは起こっているが、諸外国に比べるとかなり控えめである。物価も上がらないし、賃金も上がらないという日本の「気分」は、この30年うまくコントロールができていない。ずっと停滞が続くという「気分」が自己成就しているという指摘は、番組の一つのハイライトであった。
やくしまるえつこさんのナレーションは、まるで「句読点」のように控えめだが、しかしとても効果的に用いられている。番組を進める上で本質的な論点や議論はインタビューを受けた識者の発言で構成されている。制作者の主観は「隠し味」にとどめて、可能な限り登場する人物の肉声で番組を構成するというドキュメンタリーの今日の世界的な文法に沿ったつくりだと言えるだろう。
イノベーションにおいては、悪化が良貨を駆逐することもあり、必ずしも経済、社会に良い影響をもたらすとは限らないという自己矛盾。技術革新において「すべてはガレージから始まった」というような神話は実は妥当ではなく、アメリカのアポロ計画が後のソフトウェア産業の発展を促した事例に見られるように、政府の役割が重要性であること。社会や国家にとっての、「実験」の必要性。鋭く切り開かれていく知の地平線が心地よい。
今日の世界、そして日本を考える上で、さまざまな示唆に富んだ50分(前編)であった。続編に期待したい。
1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究。文芸評論、美術評論などにも取り組む。NHKでは、〈プロフェッショナル 仕事の流儀〉キャスターほか、多くの番組に出演。