2段組みで500ページ超の大作です。白鯨と聞くとメルヴィルの名作を思い浮かべますが、この本は、ジョン万次郎がメルヴィルの『白鯨』の主人公・エイハブ船長に助けられるという奇想天外な話。
ご存じのように、ジョン万次郎は幕末の土佐の漁師。出漁中に遭難し、捕鯨船に救助され、アメリカで教育を受けたのち帰国。通訳などとして働き、開成学校(現・東京大学)の教授となった実在の人物です。この本の設定は実際にはありえませんが、読むほどに実話かと思うほど引き込まれます。
じつは、若きメルヴィルが捕鯨船に乗った年と、万次郎が遭難・救助された年は同じ1841年。メルヴィルの『白鯨』発表と、万次郎の帰国も同じ1851年。この10年の間に、2人が出会っていた可能性はなくはない、と思ってしまいます。
物語は明治後期、ジャーナリスト・徳富蘇峰が晩年の万次郎に話を聞くという体裁になっています。各章に、メルヴィル『白鯨』が引用されていますが、それが物語とぴったりシンクロしていて違和感がない。
とくに舌を巻いたのが、憎き白鯨に尋常じゃない執着を見せるエイハブ船長の描写。すぐれたエンターテインメント作家は数多くいますが、夢枕さんの筆のパワーには改めて圧倒されました。
メルヴィルへのオマージュにもなっている本作を読んで、もう一度、オリジナルの『白鯨』を読みたくなりました。
(NHKウイークリーステラ 2021年8月27日号より)