「タイトルバックの出演者の中に尾美としのりさんの名前があるけど、一体どこに出てたの?」

最近よく周りの人から聞かれていたのですが、今回やっとその正体がわかりましたね。戯作者朋誠堂(ほうせいどう)()(さん)()こと()(わの)(くに)久保田(くぼた)藩藩主たけ家の江戸留守居(るすい)平沢(ひらさわ)常富(つねまさ)(1735〜1813)の役です。平沢はれっきとした武家ですが、吉原通いを続けたことで知られた遊び人です。

田沼時代、この留守居役という立場の侍たちは江戸で羽を伸ばしていたのか、吉原より格下の町芸者相手のちょっと野暮(やぼ)な客として川柳などによく()まれています。

さて今回のお話の中心は、吉原で毎年8月1日から晴天の30日間行われた吉原(にわか)の祭りでした。

(つた)(じゅう)(演:横浜流星)が安永(あんえい)6年(1777)8月の吉原俄を記念して出した絵本『明月(めいげつ)()(じょう)』の序文は、喜三二によるもので、一度途絶(とだ)えた俄が一昨年(安永4年)再興され、去年、今年(安永5、6年)と(にぎ)やかに開催されたと書かれています。

この祭りは、吉原芸者や禿(かむろ)たちの趣向を凝らした出し物を中心として、吉原のメインストリート(なか)ちょうを練り歩くものです。吉原内の町や遊女屋ごとの出し物が臨場感豊かに描かれた『明月余情』は、俄を詳細に記録した、これまでにない絵本でした。

(後方中央3人の左から)俄を見物する勝川(かつかわ)春章(しゅんしょう(前野朋哉)、きたしげまさ(橋本淳)、蔦屋重三郎

なぜか絵師の署名は入っていないのですが、絵は人気絵師の勝川春章(1743〜93)によると(もく)され、その詳細な描写から、間近に俄を見ていたであろうと想像されます。

『明月余情』朋誠堂喜三二による序文
墨摺絵本3巻3冊 安永6年秋刊 
※稀書複製会編(大正9〜10年 米山堂) 
国立国会図書館デジタルアーカイブより転載

『明月余情』「中の町 子供花出し」 墨摺絵本3巻3冊 安永6年秋刊 
※稀書複製会編(大正9〜10年 米山堂)  国立国会図書館デジタルアーカイブより転載

『明月余情』「大もんじや内 すずめおどり」 墨摺絵本3巻3冊 安永6年秋刊 
※稀書複製会編(大正9〜10年 米山堂) 国立国会図書館デジタルアーカイブより転載

ドラマでも『明月余情』「大もんじや内 すずめおどり」(上図)の熱狂を再現。
すずめ踊りを競う大文字屋(左/伊藤淳史)と若木屋(本宮泰風)

『明月余情』「中の町 子供花出し」(上から2番目の図)で演じられた曽我(そが)()(ろう)時致(ときむね)と女(あさ)比奈(いな山車だしでは、前回からドラマに登場している(じょう)瑠璃(るり)(がた)りの富本とみもと(うま)()(すけ(1754〜1822)(演:寛一郎)の美声も響きました。

午之介はこの安永6年正月に二代目()(ぜん)()(ゆう)(しゅう)(めい)しており、一層の人気を誇ったようです。ちなみに三味線を伴奏に使う浄瑠璃は、音曲の一種ではありますが、「(うた)う」ではなく、太夫がストーリーを独特の調子で「語る」ものです。

豊前太夫人気に蔦重の出版欲が動いたのも無理はありません。豊前太夫の襲名と同じ安永6年の芝居11月市村(いちむら)()(かお)見世(みせ)夫婦(めうと)(ざけ)替奴(かはらぬ)中仲(なかなか)」(下図)により、蔦重は富本(しょう)(ほん)(富本節の()(しょう)を記した本)の出版を始めます。

富本正本『夫婦酒替奴中仲』安永6年11月 
版元:蔦屋重三郎 東京大学 黒木文庫

当時、芝居(しばい)(まち)は堺町(現在の中央区人形町)、豊前太夫がいたのは元柳橋(現在の中央区東日本橋)と、いずれも日本橋周辺で、距離的にも吉原とは文化圏が違うように思えます。しかし蔦重は豊前太夫と提携して、富本正本のほか、(けい)()本も出しており、吉原芸者や吉原に出入りする粋人(すいじん)、また()(せい)の富本節を(たしな)もうという人々に大きな需要を見込んだものと思われます。

 

大人気の豊前太夫と蔦重が連携して巻き起こしたブーム

浄瑠璃の一流派である富本節は、歌舞伎(かぶき)舞台において広く大衆に知られるようになりましたが、吉原俄の演目にも、歌舞伎の人気場面が取り入れられることがありました。

一方、錦絵の分野では、安永期(1772〜81)にはいそ()()(りゅう)(さい)(1735〜?)(演:鉄拳)が、天明(てんめい)期(1781〜89)には(とり)()清長(きよなが)(1752〜1815)がおもに吉原俄を描き、ほとんどが老舗(しにせ)版元(はんもと)西(にし)(むら)屋与(やよ)(はち)(演:西村まさ彦)から出版されています。女芸者を中心とした演技の様子に加え、演目や芸者名が文字情報として画面に示された、プログラムのような形式の図です。

磯田湖龍斎「青楼せいろうにわかきょうげんづくし おと酒かわらぬ中仲」 
中判錦絵 安永7年(1778) 版元:西村屋与八 
東京国立博物館蔵 
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

例えば湖龍斎の「青楼俄狂言尽 女夫酒かわらぬ中仲」(上図)は、先に()げた安永6年11月市村座の歌舞伎で演じられ、蔦屋が富本正本と稽古本を出版したものと同じ演目です。すぐに吉原俄に取り入れられたと考えられますので、翌7年8月の俄を描いた図である可能性が高いことが指摘されています。

湖龍斎の錦絵における活躍時期や画風としても、それは間違いないでしょう。さらにこの図には、豊前太夫ほか富本の太夫名が4人も記されており、芸に()けた芸者衆を抱える吉原で、浄瑠璃語りが芸能者として尊ばれていたことがわかります。

桜草の紋付を着て、富本節を披露した富本豊前太夫

吉原にも、正式に富本節を語る男芸者が現れます。その最初と思われるのは、安永9年(1780)秋の吉原細見に見える富本安和(あわ)()(ゆう)です。天明5年(1785)には最多の5人となり、豊前太夫との共演が多い名見(なみ)ざき(とく)()ほか三絃(三味線方)も5人の名が見え、吉原における富本節の全盛となりました。豊前太夫は別格で、俄ではゲスト出演、また座敷に特別に呼ばれることもあったかと想像します。

その長い顔から、(うま)(づら)豊前との愛称が付けられた豊前太夫の人気は、こののち天明・寛政期(1781〜1801)も続き、浄瑠璃語りとしては珍しく、その姿が似顔で錦絵に描かれるようになりました。この機会にいくつか紹介しましょう。

芝居の場面に()(がた)り連中(浄瑠璃語りや三絃)を加えた、いわゆる「出語り図」は、清長が西村屋から出した新しい形式の役者絵でした。下に紹介するのは、天明3年(1783)5月森田座「契情けいせいこいきゃく」に取材した作品で、演じる歌舞伎役者ばかりでなく、後方の出語り連中も似顔で描かれています。中央が豊前太夫、左の脇語りは富本斎宮(いつき)()(ゆう)、右の三絃は名見崎徳治で、これは当時の富本の黄金トリオでした。

鳥居清長「二代目小佐川常世の梅川、
四代目坂東又九郎の忠兵衛、中村勝五郎の孫右衛門/
浄瑠璃=二代目富本豊前太夫、
脇語り富本斎宮太夫、三絃名見崎徳治」 
大判錦絵 天明3年 シカゴ美術館蔵 
The Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham Collection

豊前太夫の紋は桜草で、浮世絵ではこの紋が富本を示す記号のように使われています。「馬面豊前」と称されたように、“イケメン”の(はん)(ちゅう)に入るとは言えませんが、その声が女性の心を(とろ)けさせたのは確かです。

弟子も多かったらしく、当時狂歌や文筆で人気だったおおなん(1749〜1823)は、天明7年(1787)刊の蔦重版の狂詩集『つう選諺解せんげんかい』の中で、豊前太夫の門弟となり、「富本豊○○」と名乗る娘が江戸八百八町に多くなったことを記しています(ついでに「富本正本は耕書堂で」と宣伝文が続きます)。

鳥居清長「二代目富本豊前太夫とその弟子」 
大判錦絵 天明3〜4年(1783〜84)頃 
国立劇場蔵

「二代目富本豊前太夫とその弟子」(上図)という、舞台上の姿ではない錦絵も興味深く思えます。ひときわ背の高い豊前太夫に、(そろ)いの着物の若い女芸者が3人、後ろに男が随行しています。先頭をゆく子どももまた芸者です。それぞれ桜草が着物の紋や模様に表されています。

女性の()(おり)は禁じられていたのですが、この頃富本節を語る女の子が男の格好をして長い羽織を着ることが流行はやったようで、天明期(1781〜89)に栄えた中洲など(すみ)()(がわ)周辺の歓楽地を描いた錦絵でしばしば見かけられる子どもの芸者姿です。この絵は吉原の芸者風俗を描いたというよりは、(いき)な姿の町芸者の一行をイメージしていると思います。

(えい)(しょう)(さい)(ちょう)()《青楼俄全盛遊 かっこうり てつ 
ほうろくうり 左之介」
大判錦絵 寛政6年(1794) 版元:鶴屋喜右衛門 
メトロポリタン美術館蔵 
The Metropolitan Museum of Art, The Howard Mansfield Collection, Purchase, Rogers Fund, 1936

絵師の栄松斎長喜の吉原俄の図(上図)には、「寿ことぶきみやこにしき」とあり、「かっこうり」のてつ・・と「ほうろくうり」の左之介という芸者とともに、豊前太夫が半身像(右)で描かれています。太夫の名前は文字で示されないものの、桜草の紋と長い顔で豊前太夫として間違いありません(しかし太夫の目尻に(しわ)が……)。

寛政(かんせい)6年(1794)3月には、江戸の劇場・(みやこ)()163年の寿興行として「都の錦」が上演されており、この時豊前太夫の門弟が総出で出勤(浄瑠璃役者は出演と言わず出勤と言います)したと言います。蔦重もまた『(かっ)() 宝禄(ほうろく) 寿(ことぶき)(みやこの)(にしき)』と題した稽古本を出しており、その評判から同年8月の吉原俄の演目にも取り入れられたのでしょう。

このように豊前太夫と連携して、歌舞伎で評判になった演目で蔦重が富本正本や稽古本を出し、それが吉原俄の演目にもなるという流れがあったようです。

 

参考文献:
鈴木俊幸『「蔦重版」の世界 江戸庶民は何に熱狂したか』NHK出版新書 737
2024年 NHK出版
浅野秀剛「吉原俄の錦絵ー安永期から寛政四年まで」『浮世絵芸術』158号 
2009年 国際浮世絵学会
浅野秀剛「歌舞伎と吉原俄」『歌舞伎評判記集成 第三期 第八巻』月報 
2025年2月 和泉書院

 

元・千葉市美術館副館長、国際浮世絵学会常任理事。浮世絵史を研究している。学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課修了。2018年に第11回国際浮世絵学会 学会賞、2024年に『サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展』図録で第36回國華賞など受賞歴多数。著書・論文に『浮世絵のことば案内』(小学館)、『浮世絵バイリンガルガイド』(小学館)、『もっと知りたい 蔦屋重三郎』(東京美術)など。